では、そういう土偶というのは、一体いつ作られるのかということを、つい最近本にも書きましたが、国宝の縄文ビーナスにしても、縄文の女神の土偶にしても、葬られる人ができたからといって、突然に作ったものじゃないだろうというのが私の考え方です。こういう土偶というのは墓に葬られるために前もって用意されていたと・・・。それを考古学的に証明できるものは一体何かということで挙げたのが資料にある土偶と土製品の出土状態(図7)です。
ここに竪穴住居が平面形で描いてありますけれども、ちょうど下の所にHの字のように書いてある所がありますが、これが住居の入口です。この合掌土偶は、建物入口の入った奥の正面の所から落ち込んだ状態で出ています。それともう一つ、この土偶は、かつて縄文時代に一回ないし二回割れています。割れた所をアスファルトで接着しています。この家の中で、ある段階で壊れて、そこに居た人によって接合されている。そこまでして、ここまでもっていた土偶です。壊れたから捨てたのではなくて、壊れても直してまでもそこに置いておいた。それがこの住居の廃絶と共に、落下してそこで割れて、発見されている。これはまさに、この状態で土偶が一体どういう状態で置かれていたのか、墓に入る前の一つの予想を示しているのであろうと思うわけです。それともう一つ、これは土偶ではないのですけれども、それと同じようなことがいえるのが、中空の動物形土製品なのです。この墓標になった動物形土製品、これは北海道の美々(びび)という遺跡で出た、海獣形土製品と言われているものです(写真15)。
これまで北海道の人はオットセイやトドといった海獣形と言っていましたが、私は空を飛ぶ鳥だろうというふうに見ています。この復元図(図8)は、穴のあいている所に棒を立てたらこういうふうに立ちますよというものです。
要するに木の棒を二本立てて、上の1個あいている所にもう一本棒を立てると、このような状態で立ちますと。この美々のものはお墓の盛り土の中から出てきています。墓を建てた所に墓標のように立てていたものが崩れて盛り土の所に落ちた状態です。もうひとつ、右側に書いてあるのは東北原(ひがしきたばら)という遺跡で、これは今でいうさいたま市、昔でいう埼玉県大宮市ですけれども、そこの所の竪穴住居から出た亀形と呼ばれている土製品(図8)です。これは亀形ではないと思いますけれども、よくご覧になっていただくと分りますが、左側に穴が2つあいていて、右側に穴が一つあいている。この穴のあけ方というのは、北海道の美々の穴とあける数やあけ方は同じですが、位置は違っています。それを復元するとどういうことになるかというと、大宮の東北原の方は二本の棒で立たせますが、美々の方は上に一本棒をつけた形で三本立たせるという状態で、これはまさに、空を飛ぶ鳥のイメージです。ところがこの東北原の第二号住居址から出た亀も、私はいろいろな動物の要素を複合したもので、棒で立たせるために作ったものだろうと考えています。さて、この二つの共通項は何かというと、立たない、ということです。どうやっても地面の上に立たない。では地面の上に立たなければどこに立つのか、それはもう当然地面の上じゃない。だとしたら、木に刺せば立つだろう、そういう考え方で復元したのがこの図面(図8)です。実はこれが鳥であるとすれば、縄文時代の終わりから弥生時代、あるいは古代にかけて何が起こるかがこの形を見れば分ると思います。これはまさに古代の神社で言われている鳥居というものです。よく考古学で弥生時代の人が、鳥は神聖なものでそれは大陸から来て、それが鳥になったのだろうと言います。しかし私はそうではなくて、縄文時代の後期の北海道で、鳥というものに対する土製品としての概念をもっているだろうと思います。これは土偶とは言えませんが、動物を写す、要するに動物偶とでもいうのか、動物形土製品とでも言うのか、そういうものを作るときに土偶と同じ意識で作っている。では、なぜ鳥をモデルにするのか。これは勝手な推察をすればおそらく人間が持っていない能力を鳥は持っているから・・・。まず空を飛ぶ、そして空を飛ぶことから考えることは、時を超えて行くという考え方です。要するに自分の視野の中から消えてしまうものが鳥であると。時空を超える表象として鳥というものを死者のモデルに使ったのであろうと思います。それがその後の鳥居というものになっていくのだろうと私は考えています。その東北原の亀形土製品というのは方形の竪穴住居があった、平面形の一番左側の壁の下から出てきています(図9)。
この堅穴の入口は右側の太い穴が三つあいている所です。すなわちこの亀形土製品もこの合掌土偶と同じように、入口の入った一番奥の所に置かれていたものであると考えられます。合掌土偶の方はどうかといいますと、このように一番入口の奥まった所に置かれていたものが転落して出土している。それで中ッ原、あるいは棚畑のように墓に副葬される、あるいは合葬されるという状態を取っている。この亀形土製品も、どうかというと家の一番奥まった所にあって、それが北海道の美々遺跡のように墓に使われる可能性があった。墓に副葬される土偶あるいはそういう土製品というのは、その墓に葬られる人が亡くなるまで家の中で保持されていたということです。これは亡くなる人がここの主かどうか、それはまた難しいところですが、仮にこれは亡くなる人の持ち物として考えるならば、当然墓へ持って行くものという形でとらえている。縄文時代の後期あるいは晩期の社会で、死という事態が起こる前に、そういうものが準備されているということです。ということであれば、やはりその死に対する意識、あるいは副葬品というもの、あるいは死の差別、さまざまなそういう縄文時代の社会というものを特に縄文時代の後半の土偶というものは表象しているだろうというふうに考えています。ではそのターニングポイントはいつなのかということになると、難しいですが、棚畑という所で土偶を寝た物から立たせる、その段階で様々な変容が起こるのだろうと思います。立たせることによって死の土偶にもなる。あるいは誕生の土偶として継続するものもある。そういうふうに変わって行くのだろうと思います。それともう一つ、山梨県の釈迦堂という所で、土偶が1300個ほど出土していますが、そこでは全部土偶が壊されています(写真16)。
だからといって土偶は壊されるものだという一律的な考え方ではいかんだろうと思います。確実に完全無欠といえるのは長野県の縄文のビーナスと仮面の女神の二つです。また、著保内野の土偶は欠けていますが、合掌土偶は欠けてはおらず、ほぼ完全無欠です。したがって、土偶というのは壊される運命で作られたという理論は一時期には成り立つかもしれませんが、縄文時代全てを通してみると、そういうものではないと思います。その縄文時代という中で、人を象るという制作動機というのは、誕生でもあり、死でもあり、副葬品でもあり、あるいは墓を飾る墓標であり、さまざまなことで彼ら・彼女らが作ったということです。ですから土偶というものは必ずしも一つの動機で、縄文時代の土偶というのはこういうものですよというふうに語れるものではないということです。それがやはり土偶を語る上で一番大切なことだと思います。
さて、縄文時代が終わると同時に農耕が受け入れられ、それによって土偶も消えてしまいます。一体、縄文時代の特質というのは何なのか、それから縄文人の顔は表現出来なかったのかを考えていきたいと思います。一番生々しいものは、千葉県の中岫(なかのこぎ)という所で土坑の中から、壺を逆さまにして人間の顔を作った人頭土器というのが出ています(図10)。その顔というのはまさに死者のデスマスクをそのまま描いたものであります。それを見たら、ああ縄文人の顔ってこういう顔をしているのかということも分かるくらい、素晴らしい出来です。そういうものがあるので、彼らは人間の顔を描けなかったという事は絶対にあり得ません。作らなかっただけです。特に土偶の顔というものは、リアルには作っていないということが言えると思います。したがってそれは制作動機によって、リアルに作るものではなく、表象的なものとしてその時代々々の制作動機によってバラエティがありました。ですから、中空という中が空洞になるもの、あるいは中が中空にならないで粘土の塊として作るものなど様々です
この粘土の塊として作るものとはどういうことかというと、その塊の繋ぎを柔らかくすることによって壊し易いということがあります。山梨県の釈迦堂で分析した人が「土偶というのはどうも作る時に壊すことを前提に作っているのではないか」と言っていました。それも一部あるかもしれませんが、完全に全て壊されるためだけに作られているものではないと思います。大事に壊れた物を接着しながらも完全な形を保って、墓に持っていこうという、そういう意図の下に作られた土偶もあるわけです。
様々な目的で土偶は存在していたと、理解していただければいいのではないかと思います。