北側の浅い谷~金生ムラに必要な湿地
縄文時代後期の中頃になりますと、集落の立地する場所が変わってくるようになります。最初に、山梨では後期、晩期になると遺跡がほとんど無くなってしまったと考えられていたというお話をしましたが、実はまったく人が住まなくなってしまったのではなく、ムラを形成する場所が変わってきたということなのです。それまでの中期の集落は高台に多かったのですが、後期中頃以降にはもっと低い場所、つまり水辺に近いような所が選ばれるようになったのです。高台では、後世に畑として耕されてきたことから埋まっている土器などが細かくなって地表に散らばりやすいのに対して、水辺に近い低めの尾根などは水田として利用されており深くは耕されない。だから下に埋まっている土器が地表に現れにくいのです。前にもお話しましたが、遺跡があるかないかを知るためには、まず分布調査といって地表を歩き回ることから始めます。従って水田では土器を採集することはできない、だから遺跡として把握することができない、後期や晩期の遺跡は非常に少ない、ということになってしまったのです。ところが金生遺跡のように圃場整備予定地の発掘でその時代の遺跡の所在がだんだん分かってきたのです。
ここで中期と後期以降の遺跡が、同じ尾根の高い箇所と一段下がった箇所にあるという典型的な事例をお話しします。図16は八ヶ岳南麓の後期晩期の遺跡分布図です。この地図の中央から下のほうに四角いマークのついた「2」という遺跡があります。長坂上条遺跡と言いまして金生遺跡と同じ時期の配石を伴う大きな遺跡です。ところがその四角でマークしてある北側の部分は一気に標高の高い尾根になっておりまして、そこは酒呑場遺跡(さけのみばいせき)という縄文時代中期の大集落なのです。現在山梨県の酪農試験場になっておりまして、その改築工事に伴う発掘で多くの住居や土器が出土しております。つまり畑になるような高い場所には中期の大集落が形成され、そこから下がって谷に直接面しているような低い尾根には後期や晩期のムラが営まれるということになるのです。後期の中頃以降の遺跡というのは集落の一部に湿地とかあるいは水場を取り込むような立地にあるのです。それだけ水場が必要になってくる。中期の集落にとっても水は必要ですから当然水場が近くにあるはずなのですが、すぐ目の前というわけではないのです。
金生遺跡の場合も、配石や住居がある低い尾根のすぐ西側が谷になっていて、現在は水田として耕されている。その標高差はほんの五~六mといったところで、すぐ水場に行くことができるのです。この西側の谷に広がっている田んぼでは試掘に入った冬の時点でも、水が染み出していてじめじめしていたのです。地元の老人のお話ですと、若い頃はもっと水が湧いて溜まっていたということです。この谷面も発掘したのですが、八ヶ岳からの土砂崩れなどで結構埋まっていて石がごろごろといった状態でした。木製品などが埋まっていることを期待したのですが、そのような泥炭層は堆積しておりませんでした。しかし金生集落が機能してした時代、その西側の谷は水が豊富な湿地であったことは十分に考えられるのです。ムラの人々はそこに飲料水を求めるとともに、洗い物をしたり、木の実をさらしたり植物の繊維を水漬けにしたりといった用途で利用していたのでしょう。
さらに重要なことは、後期中頃以降集落の隣接地に水場や湿地が取り込まれるようになった立地上の変化が、何に起因するのかといったことなのです。やはり水場や湿地が生活にとって大変重要な場になったということだと思います。具体的には、生産の場として湿地が活用されたものかと考えております。つまり湿地での植物栽培という見方なのです。例えば極端な話ですが、サトイモのような水場を好む作物の栽培です。長野の沓掛温泉あたりでは、サトイモ類が自生しているようですが、湿地を好むイモ類も確かにあるようです。ニューギニアではタロイモやヤムイモが栽培されていますが、台湾の紅頭嶼では水田で栽培されるサトイモもみられるようです。最近土偶の研究も進んでおりまして、学習院大学の教授であった吉田敦彦氏は特に東南アジアのハイヌウエレ神話との結びつきから、土偶は食べ物をもたらしてくれる女神ととらえています。山梨の小野正文さんは、制作方法からみて土偶は壊されることを前提につくられたことを主張しております。つまり土偶を壊して埋めることにより、そこから新たな食べ物が発生してくるという考え方です。サトイモは種イモを植えると子イモがたくさん付いてくる。まさに古いイモから新しいイモがいくつも発生してくる。土偶とサトイモ類の共通性がみられるのです。土偶はもちろん中期にもたくさん作られていますので、後期のようにムラが湿地の近くに形成されることの理由にはなりません。しかし後期になると湿地に栽培されるサトイモ類が主流になってきたのではないかと思っているのです。極端な話としては、すでに縄文時代の後期や中期にまで米の栽培が遡るという意見もあります。でも、後期の湿地指向が稲作であるとは、私はまだ考えておりません。イモ類の栽培についても、それに関する道具類やデンプン質の残存を示す遺物がないことから推測の域を出ないことは確かであります。でもこのような視点でこれからさまざまなデータを集めてみたいと思っているのです。少なくとも湿地に頼った生産とか加工の場として、縄文後期の生活を考えてみたいのです。
イノシシ飼育の問題
金生遺跡を特徴づける大変重要な遺物の一つに、イノシシの骨があります。これは晩期の層に掘りこまれた直径一m、深さ八〇㎝ほどの穴に埋まっていた下顎のことです。なんと一三八個体もの下顎がここから発見されたのですが、そのうちの実に一一五個体が幼獣の骨だったのです。この鑑定を行った早稲田大学の金子浩昌先生によりますとそれらの幼獣は生後七、八ヵ月のいわゆるウリボウの下顎であり、全て強く火を受けているとのことでした。このことからイノシシの幼獣を用いた祭祀が行われていたとか、これだけ多くの幼獣を手に入れるためには飼育されていたのではないか、などの重要な問題が提起されたのです。最後にこの問題をお話ししてみようと思います。
その前に、まず図15をご覧ください。金生遺跡に行かれた方はご承知かと思いますが、これは整備された遺跡の入口のところにある案内板の絵柄なのです。これ有田焼の陶板でしてね、もう何年も経つのですが色あせしなく、しかも丈夫で説明版としてはなかなかいいものです。私は「金生ムラ・ある秋の昼下がり」と名付けましたが、ちょうど縄文時代晩期初めの頃の配石と住居とがセットになったムラの様子が描かれています。問題点や言い足りないこともたくさんあるのですが、いろいろな情報が入っています。時期的には一〇月くらいですかね。
ちょうど紅葉が始まっておりまして、イワシ雲というかウロコ雲が空に浮かんでいます。紅葉が始まるということは落葉広葉樹の森ということなのですね。村の近くには食べられる実がみのる木も植わっているのかなということで、手前には栗の実が落ちそうになっている。その下の方には花が咲いております。リンドウでしょうかね。ちょっとやり過ぎなのかもしれませんがリンドウの手前、これはトリカブトです。食べるには毒性が強いのですが、漢方薬として使われるようです。弓矢の矢じりにつけて使えば毒矢にもなる。要するにまわりは落葉広葉樹で、ドングリなどが実る非常に豊かな林が広がっているという様子がここに描かれているのです。そして奥の林の手前が湿地ということなのです。先ほども言いましたように、この湿地が加工場とか生産の場になっていたと思っているのです。住居が八軒ほど並んでいますので、三〇人から四〇人くらいのムラかなというイメージですね。先ほどもご質問が出ましたが、住居の形が普通の縄文の復元村で見るような屋根を葺きおろした家とは違うのです。つまり竪穴住居ではない。竪穴住居ではないということでしたら壁が無ければまずいのではないかということで、壁立ちになっているのです。
例えば岩手県の「八天遺跡」、これは中期の遺跡なのですが、また東京町田の「なすな原遺跡」でも一部そうだったのですが、竪穴住居ですが、火災に遭った住居の壁の内側に土手状に焼けた土が残っていた例があったのです。あれいったい何かなと考えたのですがどうも壁の痕跡ということでも良いのではないか、と思ったのです。竪穴住居でもある程度壁立ちもある。そうすると金生遺跡のような深く掘られていない「周石住居」などは壁立ちでもよいのかな、ということなのです。でも壁が土壁なのか植物などの材料なのかといった判断はつきません。この辺は推測の域は出ないのです。入口が隅っこにあるということについてもいくつかのご批判はあります。
ところで住居のまわりではいろいろな作業をしております。一度にこのような作業はやらないと思うのですが、左奥では土器づくり、右奥では石器づくり、右手前では毛皮干し、左手前ではドングリや栗を干しているといった日常の様子があらわされているのです。
一番の問題が、金子先生から叱られたことにあります。金子先生という方は、先ほどもお話ししましたが、イノシシの下顎を鑑定してくださった動物考古学の第一人者で、私が学生時代からお世話になっている先生です。ちょうど絵のど真ん中に描かれている、柵の中にイノシシがいるという表現についてのことなのです。これはイノシシの子供、つまりウリボウなのです。金子先生は縄文時代でのイノシシ飼育問題については大変慎重な方で、現在研究者のなかでは飼育が当然であるといった風潮が広がっていることに対して警鐘を鳴らされております。そこで柵の中のイノシシに対して疑問をお持ちになられたのです。どうしてウリボウがここに描かれているのかということですが、先ほど話しました一つの穴から一一五個体ものイノシシ幼獣の下顎の骨が発見されたことと関係するからなのです。これらは全て焼かれていることについてもお話ししたとおりですが、これらは単に食料として食べられた後の廃棄物ではなく、祭祀に用いられた後でこの穴に埋納されたものと考えるのが妥当かと思っています。火で焼かれていること、下顎だけであること、幼獣が中心であることなどはやはり祭りに強く関わった証拠かと思うのです。そこで問題となるのが、祭りに必要な時に子供のイノシシがすぐ手に入るには、飼育がおこなわれていなければならないではないか、とも言われていることについてです。つまり縄文時代にはすでにイノシシが飼育されていたという意見があることも確かなのです。でも飼育段階を考えるには、農耕の開始とか縄文社会のしくみとかをさらに詳しく研究する必要があり、現状では断定できないと私は考えております(註8)。しかしウリボウを用いた祭りが行なわれていたことは、十分に考えられますから、その時にはこの金生ムラにとってイノシシが絶対に必要であったことになります。そこで、私は祭りが行なわれるまではムラで幼獣を飼っていたのではないかと考えたのです。イノシシは通常四月から五月に出産しますが、多産でありまして一頭あたり五、六頭、多いものでは一〇頭くらい産むのです。最後まで生き延びるのは三、四頭くらいだそうですが、夏から秋にかけてはこういうのが徒党を組んでドドドッと山から下りてくるわけです。そのような時、子どものイノシシは割と目に付くし捕らえられやすい。今でもウリボウが側溝に落ちていたり、はぐれてしまって保護されたという新聞記事を目にします。縄文時代にはこのような出来事、さらにはイノシシの群れが縄文ムラにまでやってくるような事態も往々にして生じていたのではないかと思うのです。そのような幼獣を縄文人たちが獲ってきて、祭りの時まで一時期に飼っておくということがあったのではないかと思っています。それが「柵の中のウリボウ」という表現なのです。ただしこの絵を一〇月だとすると、ウリ坊の縞はもうこんなに残ってない。縞はほとんど消えかかった時期になりますので、絵にはちょっと間違いもあります。
(図15) 金生ムラ~秋の日の昼下がり~
(図16) 八ヶ岳南麓の後・晩期遺跡
■註 8 このことも含め後に『猪の文化史』二〇一二雄山閣に執筆した