種子島・南九州考古学ツアーに参加して-縄文文化の最先進地-
去る5月10日から13日まで、私はNPO法人国際縄文学会が主催された表記のツアーに参加した。現地の専門家のご案内・ご教示により、これらの地が日本の縄文文化の最先進地域であったことを学ぶことができた、非常に楽しく有益な旅であった。
・種子島のストーン・サークル
種子島の縄文遺跡のうち、私が最も興味を惹かれたのは、縄文時代後期に属する南種子町の藤平小田(ふじひらおだ)遺跡であった。半弧状に二列に並んだ配石遺構が検出され、解体された配石は、郷土記念館の庭の屋根の下に保管されていた。一つ一つの石は二、三人がかりでようやく持ち上げられるほどのやや細長い平らな磨石で、石皿も混じっていた。半弧しか残っていなかったのだが、これは南九州には他に例のないストーン・サークルの跡と考えられている。
サークルの中央からは、日常の土器とは違う、祭祀用と思われる土器が出土した。また近くには、1000個ほどの小石を敷きつめて火を焚いたあとのある、直径2メートルほどの集石があった。サル、シカ、イノシシなどの骨が見つかり、大型土坑も検出されているから、ここで肉を焼いたり燻製を作ったりしていたのではないかという。動物供犠を伴う何らかの祭祀が行われたのだろう。石皿では植物性の食物も調理したと思われる。
注目すべきことは、この遺跡が西方の屋久島の方を向いていることだ。祭祀は屋久島に向かって行われたと思われる。屋久島に沈む夕日を拝んだとも考えられるが、どういう周期で祭祀を行ったのだろう。冬至や夏至、春分や秋分だろうか。それらの日に夕日だけを拝んだのだろうか。
・月の甦りを考える
ここで一旦太陽から離れて、月を考えてみたい。月は新月・満月・旧月を経て姿を消し、三日の朔を経て西の空に甦る。月というと満月を思い浮かべる人が多いが、月の信仰にとって重要なのは甦る新月である。今日でも、月の文化を残しているイスラムの人たちは、ラマダン(断食月)の終わりを告げる新月の出現を待ち望む。日本で満月をめでるようになったのは、平安中期以降のことだという。
縄文後期の藤平小田の人たちは、月の復活を待ち望み、甦る新月を拝んだのではないだろうか。ぜひ現地の方々に観察していただきたいと思う。
眉月や弓月という言葉があるが、新月は眉によって、また弓によっても象徴される。中国の先民文化について、陸思賢は次のように述べている。「嫦娥神話や先民たちが天象を観測して描いた図像の内容から考えると、先民たちは新月の誕生も祭ったのである。およそ太陽と月は、先民たちが天象を観測して図面に描く永久不変の主題であり、新月は一本の弧線で表し、「月蛾」の美称がある。美女の眉毛も、「蛾眉」や「娥眉」と称される」(『中国の神話考古』(岡田陽一訳、言叢社、二〇〇一年、第四章)。
今回は現地に行けなかったが、この遺跡から見る屋久島はどのような形をしているのだろう。私は屋久島には山が多いから、三角形ではないかとも考えた。11日に見学した種子島空港の三角山遺跡は、滑走路を造るために残念ながら壊されてしまったが、名前からみても三角の山だったろう。本土の三輪山などの神奈備山と同系統の形である。
しかしインターネットで検索した、種子島から見た屋久島の姿は、三角形ではなく、あまり深くないスープ皿を伏せた形、つまり眉形をしていた。新月の形である。屋久島は、当時の種子島の人びとにとって、朔のあいだ月を体内に留め、三日後に甦らせる聖なる月女神のような島だったのではないだろうか。
ちなみに、11日に見学した縄文時代草創期の三本松遺跡の土器の圧痕(土器の中の穴)からは、約1万5000年前のコクゾウムシの痕跡が発見されている。これまでの国内での発見より約6000年も遡る、世界最古の発見である。稲作前のものだから、ドングリなどの貯蔵物に寄生していた可能性があるという(「市政の窓⑧」 2011年5月号)。藤平小田遺跡の縄文後期の人びとは、狩猟採集だけでなく、何らかの初期農業を営んでいた可能性があるらしい。
狩猟にも周期はあるが、種子をまいて収穫するまで食物を育てる農業によって、人間は周期というものをより明確に意識したに違いない。
・聖なる赤米の伝承
さて、種子島と屋久島はあまり仲がよくないという。種子島は屋久島を領有し、16世紀には根占勢に奪われた屋久島を武力でとり返している。両島の関係が逆転した理由を考えてみた。
種子島は677(天武6)年に、本土のヤマト政権に入朝している。天武天皇が二年前に発令した肉食禁止令は、その後も形を変えて繰り返されたから、次第に島内に浸透していったに違いない。動物供犠は狩猟とともに、禁止の対象になっていったと思われる。それは私見では、月の信仰の禁止と抑圧を意味していた。崇拝の対象であった屋久島の地位は、低下していっただろう。
10日の午後見学した宝満神社の神田は、玉依ヒメによって種子島にもたらされたと伝えられる赤米の田であり、今は耕運機を入れるため船形にしたが、元来は三角形だったと、夕食のとき石堂和博先生からうかがった。三角形は、縄文土偶の女神像の下腹部に数多く見られる逆三角形を思わせる。豊饒多産のイメージであろう。縄文から弥生へ、三角形の意味は変化したと言われるが、ここでは同じ豊饒のイメージが伝承されたのかもしれない。
そして聖なる血の色をした赤米の伝承……。“赤不浄”の偏見のため、女人禁制にされてしまったが、本来は聖なる血の色をした、聖なる赤米の田だったはずだ。女の子が初潮を迎えたとき赤飯を炊いて祝う風習がある(あった)が、小豆を使う前は、赤米を炊いたという。小豆→赤米→玉依ヒメ→三角形▽→血と遡れば、ここにも女性の血の聖化の一証拠がある。
だが種子島に被差別部落はない。血の不浄視は受け入れても、動物の屠殺や解体作業を不浄視する偏見は、中央から受け入れなかったのだ。近世以前の東北地方もそうだったが、縄文以来の狩猟の伝統のたまものだと思う。
はじめて参加した考古学ツアーは、私にとって非常に収穫の多い旅になった。旅のお世話をしてくださった会の方々、案内してくださった諸先生方に、厚くお礼を申し上げたい。