戸村 正己(フィールド考古 足あと同人)
インタビュアー:土肥 孝(国際縄文学協会 理事)
土肥:縄文時代の中で、比較的新しい時代の土器と、古い時代の土器ではどちらに魅力を感じますか?
戸村:どちらかといえば、新しい方ですね、後期・晩期が縄文に興味を持つ最初のきっかけでしたので。
土肥:後期・晩期の土器は、特別良い土器ですね。
戸村:製作して感じられたことは、デッサンとも言うべき下描きをし、その後に行なったであろう器面調整やら磨きなどの作業の痕跡を観察すると、中には、これ程までに磨き込むかというくらい、入れ込みが感じられる土器があります。しかし、「何これ?」と言いたくなるような稚拙な土器も、まま見受けられます。そのような土器は、弟子を育てるために作らせた手習いの作品であった可能性が考えらます。
土肥:なぜ、どうしようもない土器があったのかといえば、子供たちも土器制作を学んでいたからではないでしょうか。教えていたのが、おばあちゃんなのか、お母さんなのかはわかりませんが、「こういうものを作ってごらん」と自分たちの作り方を伝承していった。下手でもいいからとそのまま焼くんです。当時の子供たちが一生懸命、泣きながら作っている姿が見えてくる土器もあります。土器というのは、そのようにして繋がっていくのではないでしょうか。戸村さんも人材育成を考えないといけませんね。
戸村:そうですね。私が今まで体験してきて思うことは、なかなか言葉では伝えにくい感覚的な技術面があります。それは、沈線の引き方1つとってもそうですが、線も一様ではなくて太さや深さの違いがあり、各型式の共通項に則った線が引かれていることから言えることです。
私の土器製作の基本は、今日の土器製作研究の草分けである新井司郎氏から学びました。先生は「ただ表面的に形を真似るだけなら、それは単なる偽物作りだ。縄目の1つ、線1本について、つぶさに観察した上で土器を作るべきだ」と言われました。
そのような視点で実際の土器を見てみると、ミリ・・の間隔で細密な沈線が1本1本引かれ、器面を埋めたりしているものがあって驚かされます。現代感覚で言えば、もっと簡略的に描けば良いのにと思いますが、やり遂げています。そして結果的に、それを惜しげもなく使い、煤で真っ黒にしてしまう訳ですから。芸術品ではなく、当り前と言えば当り前のことですが・・・。
私が思うには、土器作りも言ってみれば「祈りの行為」であり、ある意味では修行の姿にも似ているのかなと思えます。粘土という素材を自然から頂き、人が形を作り、火の力などを借りて産み出す“人と自然の関係”つまり、人間としてやれるところまで成し遂げたら、あとは精神の中で成就されるのだと。祈りの縄文時代が終わり、弥生時代になると文様が一掃されることからそう思います。
私は縄文土器製作のあり方を、マラソンの競技に例えて言うのですが、それは、ロードレースで折り返し地点まで行き、今度は競技場に帰ってきます。土器作りで言えば、器の形が出来上がった時点は、まだ折り返しの地点。現代の器というのは、その折り返し地点がイコール到達地点であると思いますが、縄文土器というのは形ができて終りではなく、そこから折り返して文様を描く作業があり、倍の労力をかけて作られています。
土肥:時間をかけることを嫌がらない。縄文人はそういうものに対して、一切、手を抜くことをしていませんよね。
戸村:そのような人の心が伝ってくる学問というのは、無機質ではないからおもしろいです。しかし反面、器形や文様に厳格な共通性が見られ、勝手気ままな造形が行なわれていない社会、世界観に驚きと不思議さを覚えます。