ストーンヘンジの北北東2.3km、白亜質の丘陵上の周囲より小高い所に《ロビン・フッズ・ボール》がある。広さ1ヘクタールほどの楕円状の遺構で、周りを不規則な《盛り土》と二重の《環溝》がめぐり、どのサークルも白亜による《盛り土》で切られている。
《ロビン・フッズ・ボール》は一帯の遺跡のなかで最も古く、《盛り土》がめぐる古い例といえよう。こうした《盛り土》をもつ遺構は、イング
ランド南部や東部の白亜層と砂利層で約50か所見つかっている。その年代は紀元前4000から3300年前後で、集会場として使われたらしい。
《盛り土》を囲む溝跡から時折人骨が出土し、その多くが頭蓋骨で、ここで葬送儀礼がおこなわれたと推測される。
近年の発掘で、《エンクロージャー》の外で初期の農民の集落跡が確認された。
灰白色をした軟質石炭岩、つまり白亜層に掘られた小穴跡から獣骨、フリント製の石器、完全な形で丸底の壷が出てきた。この他に穴の周辺にはフリントでつくった石器片や剝片が多数散っていたうえ、調理に使ったであろう炉跡も確認された。
さらに《盛り土》を囲む溝跡からは、人々が食用とした動物遺存体の骨が大量に見つかったことから、ここで祝宴が催された、という説が有力である。
なお、この場所は現代の軍事施設域となってい
るために見学はできない。
これと同じように動物遺存体が厚く堆積した穴跡が、ストーンヘンジの南東1.3kmにあるコーニーベリーヒルで調査された。
ストーンヘンジの南東1.3kmにあり、現在、地上には何ひとつ痕跡をとどめるものはないが、ここが「ヘンジ風の遺跡」であることは航空写真からわかった。1980年の発掘調査で、周囲にめぐらされた《環溝》、その内側にある柱穴跡やピット跡などが確認された。これらの遺構からは新石器時代後期のフリント製の道具類、完形の土器47例、獣骨2000余点が出土している(図23)。
このヘンジは短期間だけ使われたのちに放棄された。
紀元前2300年ころ、ブリテン島に海の向こうの大陸から新しい物質文化が交易にたずさわる人たちによりもたらされた。在地の島民の心をゆさぶったもののひとつが、青銅製の短剣や斧、器面を沈線や刺突紋で埋めつくした《ビーカー土器》、あるいは工人の精巧な技術で製作した《バーブド・タングド》というフリント製の鏃といった品々である。
農耕民のなかでも穀物の生産量を高めたり、他地域との交易によって富を蓄えた有力者があらわれた。
かつて有力者らは《長形墳》に共同埋葬されたが、時が経つにつれ、《円墳》に1人1人葬られ、スティタス・シンボルとなるような品々が供えられた。こうした新しいスタイルの葬制は、以前の研究者によると《ビーカー族》が侵入したさいに
たずさえて来たという。しかし、最新の見解は在地人のモノの考え方や大陸からの物資の流入によるもので、渡来人説は否定された。
初期の《ビーカー土器》は、器面全体を沈線文様などで飾っており、この種の土器は、おもにストーンヘンジ地区をのぞいたウェセックス地帯から出土する。もしかすると、《ダリントン・ウォールズ》の儀式センターの領域に分布するため、セ
レモニーのさいに用いられた、という見方もある。
1978年、ストーンヘンジの《環溝》を発掘したときに墓跡に遭遇し、坑内から男性人骨1体と石製の手首防具や《バーブド・タングド石鏃》が伴出し、年代は紀元前2100年前後といわれている。男性は射手と思われ、骨には2本の石鏃が打ち込
まれており、死の背景まではわからない。 死者が《環溝》内に葬られていたのを、多くの人たちは眼にしたであろう。このころに築造されたストーン・サークルの周辺には広大な《円墳》が点々とある。ストーンヘンジ近辺の空中撮影で
は340以上の《円墳》が確認でき、すでに耕作などによって壊された《円墳》が130ほどある。これら《円墳》の多くが丘陵の頂に直線上に並び、最大のものはストーンヘンジの南800mのノーマントン丘陵にあり、ストーンヘンジから眺望できる。
ストーンヘンジ周辺の3kmの範囲に《円墳》が最も密集している所は、イングランドでも他にない。
《円墳》は時の流れのなかで墳丘に変化がみられるため、年代順にながめてみよう(図24・25)。
第1期(ボール・バロー)
大きな鉢を被(かぶ)せたような墳丘で、周溝をめぐらし、墳頂下に死者を屈葬した。遺体の横
に《ビーカー土器》を供えた。
この期の最初は大型円墳で、後継者(息子の代)になると小型になるが、墳丘の形はそのままで、副葬品の数が増えた。
第2期(ベル・バロー)
大小の鉢を逆さに重ねたようなタイプで、《ベル型》とよぶ墳丘に変わる。下の墳丘の長径が大きくなって周溝も広がり、大きな墳丘の端と周囲をめぐる溝のあいだに平坦なスペースをとるようにした。
第3期(ディスク・バロー)
これはいくつかの小さな墳丘を一定の距離をもちながら溝と《盛り土》で囲んだ《円墳》である。この《円墳》は《ベル型》の墳丘を平らにしたと思えるほど低い。
第4期(ソーサー・バロー)
《受け皿型》とよぶにふさわしく、墳丘はわずかな高さで、周溝の《盛り土》よりはいくぶん高くしており、《円墳》とはいえないほどである。
第5期(ポンド・バロー)
《池型》とよばれ、中央にある円形の穴をリング型の《盛り土》で囲み、墳丘は消えて周溝の《盛り土》のほうが高い。このタイプは約40か所確認されており、そのすべてがウェセックスにある。
《ポンド・バロー》は、死者を埋葬したり、中央部分をフリント石を敷き詰めたり、あるいは近隣に眠る死者を弔(とむら)うのに使ったりしている。
新石器時代にあって最も大量に使われたフリント石は、白亜の土壌中に薄い堆積層となって、あるいは大きな塊状で、川床にもある。
地表に近い層中のフリント石は、霜で生じた亀裂が多く見られ、小型の道具にはよいが、大きな道具づくりには適さない。そのため、良質なものを得るには白亜層を深く掘り下げた。
1952年、《デュリントン・ウォール》の北東で工事中にフリント石の採掘場跡の一部が見つかった。ここでは地表に近い所から、フリントを掘り出すための坑跡が3例確認されたが、この遺構は浅く広いものだった。このほかにも深さ2.2mの縦坑跡が2例調査され、いずれも坑底から横穴が伸びていた。ここは現在、個人の自宅内にあり、埋め戻されたので、見学することはできない。
フリント石はストーンヘンジ一帯の地表にも散乱しているが、南のエイボン川に面した谷の斜面にも露出した層があり、ここでも浅い所からフリントの破片、ハンマーストーン(敲石)、石核といったものが散乱した状態で出土した。その量たるやおびただしいので、掘り出した原石を1次的に加工し、それを他の地に運び、最後の調整をしたのであろう。もちろん、採掘場所の近くでも2次加工し、みごとな石器をつくっている。
こういった石器の未成品や、完成品ができるまでの工程に出る剝片や原石から、ここが道具の製作跡とわかる。
新石器時代後半になっても、人々はフリント石の道具で大木を倒し、住居や木製容器、皮革品の加工に用いるほか、狩猟具にも大量に使った。
農耕社会とはいえ、彼らがシカ・鳥などを仕留める武器はフリント製の鏃だった。遺跡から出土する動物遺存体のなかで多いのはブタ、つぎはシカ、鳥類、魚類で、いずれも人々の口をみたした。
石器をつくる工人らは、たえず自分たちの優れた技量が発揮できる良質な材料で、鋭利な狩猟具や武器を完成したい、と思っていた。
イングランドで高品質のフリントを産するのは、ノーフォーク州グリムズ・グレイブスの鉱床である。ここの石で製作した鏃をはじめとする道具が《大英博物館》、ストーンヘンジ近辺の《ソールズベリー・サウス・ウィルトシャー博物館》、《ディヴァイゼズ博物館》、《アレキサンダー・ケイラー博物館・アヴベリー》で見られる。
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