縄文人の霊魂観というのは難しいですが、これはまず、人の遺骸をどのように扱ったかという墓地や墓標、こういうものから類推していくしかないと思っております。定住生活が確立してくる縄文前期になりますと、住居を環状、輪の形に配置して、その内部を墓地に、あるいは墓地を含む広場、いわゆる環状集落が成立します。そして、中期になると岩手県の西田遺跡のように非常に完成した形になるわけです。
西田の場合は、二百基の墓が、径二十八メートルくらいの環状に放射状になっています。真ん中の方には長方形分の建物があって、竪穴住居がおよそ十四棟、さらにその外側に貯蔵穴があります。つまり墓地を中心にして集落が同心円状にあり、これは精神を読み取れる典型的な例だと思います。墓は八つに区域が分かれていて、集落を拓いた始祖たちの墓を最初に作った後、そこを中心にまわりに埋葬を続けていった結果、このようなものが出来上がったのではないかと。これは春成秀樹さんが、小学館の「古代史の論点」の中で述べています。
中国の江南の少数民族の場合には、集落の中心にお墓はありませんが、広場があってそこに建物あるいは柱が認められます。つまり祭場が中心にある。ミャオ族の場合はそこで芦笙を吹いてお祭りをします。牛を殺したり、(写真2)供儀のための牛を繋ぐ柱でもあります。春・秋、春社、秋社というのがあり、お祭りは、その柱を中心にして行なわれるわけです。それから、トン族の場合、木鼓で作った太鼓を楼台に吊るし、その下で政治をしたり、お祭りをします。集落をみて、もし楼台が三つあれば、血縁的共同体が三つあるという事です。ミャオ族ですと一つが多いですが、血縁集団のグループが何個もある宗族もあります。また、祭場の建物は、一種のアイデンティティを求めている記念柱的な意味があります。その場合に行うお祭りは稲の祭りではありますが、あくまでも亡くなった人、死者へのアイデンティティへの確認の祖霊祭でもあるわけです。そういう意味で公共の広場は、縄文のお墓の広場と全く同じ性格を持っています。
高取正男さんという、早くにお亡くなりになられた方なんですが、平凡社から『神道の成立』という本を出版されています。それによると、「死を恐れ、死の前に慎むのは人間に普遍の感情であって、淨穢、吉凶の対立概念を操作して死を厭う。そういうものを、死を忌むのは初歩的活動の所産として歴史的に形成されたものであった」と書いてある。この萌芽は記紀の中にも出て来ていますが、これが本格化したのは奈良時代の末であるという、いわば新しいという事をおっしゃっています。私もまったくその通りだと思います。死や異界を忌み嫌う、という感情を持ったのは、特に貴族の間に広まってきた。いわば庶民ではない都会で歴史的に形成されたものだと。ましてや、縄文人に遺体と同居している観念の中に死穢というものはないわけです。お産の意味など後からいろいろ出てきますが、狩猟民にしても、血の忌みというのは全くありません。
縄文時代は、さきほどの西田遺跡方式や、三内丸山のようにお墓が列状で、一種の要から収斂していく形式があります。また、有名な多目的な祭場として中期から晩期にかけてできた、海沿いにある新潟県寺地遺跡があります。東南の隅に四本柱が建っていて、さらにその向こうに第一次葬の埋め墓があります。それに対して、東南側に積石環状列石、路上の配石があり、勾玉状の形をした遺跡があります。ここからは十一個体分の人焼骨が見つかっていて、人の骨を焼いた二次葬です。焼骨がある方が参り墓ですが、この第二次葬の方に意味があると思います。四本柱の積石遺抗群からは晩期の土器や、石棒などいろんなものが出ています。いずれにしても東南から西北にかけての軸が、聖なる軸であることは明らかです。
この遺跡の全面には、標高十二~十五メートルの階段砂丘があり、この低地の集落を砂丘が守っている。ここは、強い季節風が吹く地域で、この遺構は西北の季節風と非常に関係が深いと考えられています。ここから、サメ、ツキノワグマ、ニホンジカ、イノシシなど、焼けた骨が出ており、それとは別にサメ一体分の焼骨、サメの椎骨(ついこつ)を加工した耳飾(・・)(‥をつけた理由は後ほど)等も見つかっています。
さて、勾玉の形についてですが、縄文時代の勾玉の場合、弥生時代以降のものと違って頭部の全面に刻み込みがあります。寺地遺跡のものも典型的な古い勾玉の様相を示しています。一般的には獣形勾玉と言っています。田中基さんは、勾玉は人間の胎児の形になぞらえているとお考えですが、私はそうは思いません。『自然と文化』の中で、田中さんは、胎児と言っても初期のエラ状のものを想定して、エラにあたるとお書きになっています。
新潟県青海町の辺りは翡翠の原産地としてよく知られています。翡翠の技術集団が勾玉を作っているだとか、その勾玉の形を模して、こういう積み石状の遺跡を作ったのではないかとか、それについては間違いではないと思います。ただ古墳時代の人物埴輪の勾玉を見てもいろんな勾玉があります。弥生でいえば、丁字頭勾玉や獣型勾玉、櫛形勾玉、子持勾玉などの種類が知られます。しかしこういうものの祖形は、縄文時代の牙や骨で作った飾り物(・・・)(かどうか)に求められると思います。
少し話を変えますが、シャーマンは今でも勾玉をつけています。沖縄にはニイガン、ノロといった神女がいて、その他にイタコのようなユタという民間のシャーマンがいます。もともと、神官的なものが本来のシャーマン的なものであって、途中から二系統に分かれて、神官的な祭祀を主にやるノロ系統と、イタコのようなユタ系統になったのだと思います。
沖縄の琉球王朝時代、聞得大君(きこえおおきみ)の統制下に、ピラミッド状に神女組織というのがあります。そのときに、チンベー=君南風という、琉球王朝時代三十三君と言われた人たちの中の一人で、久米島のノロ系統の司祭者がいました。いわゆる高級神官ですが、そういう人が未だにいます。
チンベーは、六月末日にお祭りをやります。このときには山から切って来たノシランという細長い葉をギザギザに折って、円形に組んで頭に被り、首から大きな勾玉を下げて司祭します。非常に神々しい雰囲気を持っていて、この人の配下には、いろんな神々がいます。
一方、東北のイタコは、死霊を招くときに、弓とかオシラサマ、それから数珠というものを使います。これはつまり、霊力を高めるために使うわけで、例えばその「弟子上がり」といって、新しくイタコを受け継ぐ人にこれを渡す、三種の神器みたいなものです。また、イラタカの数珠といって、仏教の数珠とは違って、黒無垢の実を繋いで削る。数珠は二連のものもありますが、一連の場合はシカの角、牡鹿、それからイノシシの牙、全部オスです。クマ、鷹の爪、キツネの頭蓋骨などもあります。もう一連の方には、メスの角やメスキツネの下顎骨、あるいはメスのイノシシの牙など、いろいろつけます。いわゆる山伏のイラタカの数珠に繋がるものと考えられています。しかし、こういうものは手に持つもので、首に掛けるものではありません。全て宗教的な霊力を高めるためのものです。獣や猛禽の牙、角や爪を用いるというのは、そういう意図があるわけです。ですから、それらを持って最初に勾玉を作ったと、それを模して今度は玉にして、玉の勾玉が出来る。本来そういう祓いの意図のある、呪力のある呪物であるわけです。
いずれにしても、勾玉は一個ではなくて五百玉で出来たものです。これは、田中基さんの解釈では説明がつかないと思います。田中さんが、胎児の形にこだわったのは霊魂観を考えたからです。日本書紀の一書に、ワニの姿を勾玉の形に重ね始めていたのではないかとあります。さらに、サメの始祖神でもあった可能性があると、田中さんはおっしゃっていますが、着想が非常に面白い。なぜかというと、海の彼方から季節的に回遊してくる動物を、サメが連れてくることがあると、特に縄文時代は、日本海のサメ漁のルートを重要視していたわけです。それに対して彼は、トーテム的な祖霊を想定しました。中国の古代、長江流域では、ウナギ、ヘビ、サメなどのトーテムは非常に多い。最も、動物トーテムだけではなく、古代においては太陽や月や星もみな、祖霊的、トーテムです。肥後和男さんが、『新撰姓氏録』を使って氏氏の祖先を洗い出していくと、結びの神とするものと、火の神が半々であるといっています。また、アマツヒツなどと言いますが、アマツ日継というのは太陽霊を継いでいるというのでしょう。天皇に限らないわけです。祖先は太陽だと言っていたようなもので、その前は動物であることが多かったのです(『新嘗の研究』)。こういった自然現象も、明らかにトーテム的な意図で引き継いでいるというのがあります。勾玉の場合、おそらく最初は骨や牙で、そこから玉に変わったんだろうと考えられます。玉を尊ぶことは、明らかに中国の玉文化が背景にあると思います。玦状耳飾にも、すごく立派な玉があります。