阜新市の台地にある遼寧省の査海遺跡から、玉器の一番古いものが出ました。六千年から四千五百年前の住居址、五十九軒があり、縄文土器に似た物も三百点くらい出ています。住居址の中、中央には石積みの龍が発見されて、墓地からは、玉玦(ぎょくけつ)も出た。この玉玦が一番発達したのは、上海近くの良渚文化です。これは紀元前三千年くらい前、今からおおよそ五千年前です。そういうものと日本の縄文の玦は、関係があると考えられます。
獣型勾玉というのは、寺地だけではなくて、日本海文化のシンボル的存在であり、北陸のシンボル的存在としても知られています。それとはまた別に、九州では、コ字型勾玉というふうにいわれている。これを、かつて梅原末治さんは、中国の殷文化と結びつけました。しかし中国にはこういう勾玉はありませんし出てきていません。玉文化はありますが、勾玉は日本で作ったものだと思います。藤田富士夫さんは『縄文再発見』の中に、長江下流域で七千年前、河娒渡で出てくる玉玦がありますが、日本列島では、六千年くらい前、おおよそ中国で玦が流行りだしたと同時に、日本でも流行りました。ですので、玦状耳飾は関連があると言っているわけです。
縄文時代の耳飾、耳栓、首飾り、腕輪、こういった装身具を考古学者の多くは、美への渇望と言っています。どれを見ても、おしゃれだと書いてある。縄文土器の美しさは空前絶後の素晴らしいものだと思いますが、全然それとは関係がない。美的感覚によってこういうものを作ったわけではありません。例えば髪を縄文時代に巻き上げているのも、これは江戸時代の女性の髪型と比べると双璧であると。社会が豊かになると女性は飾り立てると言っていますが、そんな現象が縄文時代にあるわけがないのです。
少し話は変わりますが、雲南省に石林という観光地があります。そこに、イ族という民族がいてイ族の女の子が石林を案内してくれるのですが、彼らは既婚、未婚の区別をハッキリさせるために、髪型や帽子で区別しています。霊魂の出入りというのは、多く女陰からというのはもちろんありますが、頭のてっぺんから出入りするというのも多いのです。どの民族もそうですが、頭に手をやることを非常に嫌います。それは霊魂の出入りをする大切な場所を触れられたくないという観念です。イ族の女性の場合、未婚の女性は、男性から頭に手を触られるとその人の嫁にならなくてはいけないという伝承があります。そのときに案内してくれた女の子がそう言っていたので、一緒に行ったテレビのスタッフが触ろうとしたら、血相変えて逃げていったと。そのくらいですので、飾りということは絶対にありません。
ペー族の子どもは、一歳の誕生日に歳月帽という帽子を被ります。非常にカラフルな図案があって、それは全て呪術的な意味を持っています。それはもちろん、帽子というのは魂を保護するためのものです。あるいは頭に白い物を巻いたり、例えば神道でも仏教では、傘や天蓋がある。それは、みんな霊魂を保護するためのものです。これはもちろんどこへ行っても、東南アジアやインドでも、同じ霊魂観があるわけです。
そして先ほどの、節々を固める飾りと言われている、首輪、耳輪、腕輪を、ミャオ族では命を守る保命圏、保命竹とも言います。これがないと命が保てないのです。それを無くすと、鬼がやってきて、魂を奪い取るといわれていて、シャーマンを呼んでいろんな儀礼を行います。そのときのシャーマンは鬼師(リンコウ)といいますが、地域によって呼び方は違います。ミャオ語で、ダッシュというと、落とす魂、魂が消えるという意味を持ちます。子どもが何かにつまずいて、うっかり魂を落とす、あるいはびっくりしたとき、魂が一時的に失神状態になる、そのときにシャーマンを呼んで招魂の儀礼を行なうわけです。いろんな事例があるのですが、最終的にシャーマンが行う儀礼の中で、葉の先にクモを見つけてきて、それをはけ壺の中に入れる、そうすると魂が戻ると。クモを魂とするのは、日本でも朝グモ夜グモなど、いろんな占いに使います。あるいは、お盆のときにチョウが入ってくると魂が戻ってくる、いろんな虫に魂を仮託する観念というのはどの民族も強いです。
このように、魂が抜けて行けば病気になり(一時的に抜けたのが脱魂の場合)、完全に脱魂すれば魂のヌケガラとなり、死んでしまう。これを防ぐために、腕や足、胴、首などの体の節々、それから穴の開いているところ、目玉、鼻、九孔といいますけど、耳や女陰、孔の開いているところ全てに閂をかけなければいけないのです。それが、考古学者が言っている飾りなのです。(写真17)
これは、体力のある年齢のとき、男性ははずしています。老人や子どもは、もちろん付けています。誕生祝でそれを貰って、体力があるときははずして、また歳をとってきたらそれを付けて、男も女もみんなやります。ですから、出たがる魂を閉じ込めるためには、輪に輪をかけてセーブする必要がある。年に何回か、特に六月の末と十二月の末に茅の輪潜りというのがあって(輪を潜る)、あれはみんなそうです。もとは腰に付けた小さなものですから。平安時代の茅の輪などもそうです。
そのシャーマンには男も女もいて、リンコウというのは男、フバ(巫婆)はお婆さんと書きますが、若い女性ももちろんいます。特に男性のシャーマンは公共の大きな儀礼を行なって、女性の場合は個々の個人の病気などに携わることが多いです。
バイツウは白い棘と書きますが、樹肌が真っ白な木があって、その棘をあちこちいろんなところに立てて、あるいは白い紙をかけて魔を祓うということをやります。それと同時に赤を魔よけに使うことが非常に多いです。また、中国貴州省黔南あたりでは、ミャオ族が、竹の輪っか七つ繋げたものを門口に立てて、これを魔除けとして使っています。これは一種の魂結いです。魂を結わえ付ける、魂結い、それを意図しているものです。この他、鴨居のところにかけるのは、水牛の角であったり、魚を捕縛する網や鏡をかけたり、ありとあらゆる呪物を鬼払いの方法として行なっています。能登半島の真脇でも、いわゆる朱彩の遺物がたくさん出ています。もちろん玦状耳飾、耳栓、櫛、土偶、石塔、くり型木器など、全てベンガラ、朱で染まっていたということは、何も縄文人の色彩感覚で、赤と黒の対比だのそんなことは関係ない。ともかく呪物なのです。
例えば、身体装飾、お化粧をしたり、それから刺青にしても全部、ある意味手本になっているのは獣であったり、人間以外の強い物です。そういうものを真似たり、あるいは性的なアピールで、鳥の羽を頭につけると。あれも全部鳥の真似をしているわけです。そういうふうに、意味があってみんなやっていることを、縄文人は美的感覚でやっているというのは、絶対ありえません。
それから、生育儀礼の中で大事なのは掛け橋、つまり橋をかけること。なぜかというと、橋の向こうに本来霊魂が居て、橋をかけることによってこちらに引き寄せると。前世と他界、あの世とこの世の間には川がある。それが障害となって魂がこちらに来られないので、例えば子どもが欲しいときには小川や堀などに橋をかける。また、それだけではなく、今度は家の中にも非常に象徴的な橋を埋め込みます。事例がありますが、一~二歳でバオミンヅォ(保命竹)といって、竹取物語のように竹を作ります。竹の中から子どもが生まれるでしょう。桃太郎でも、瓜子姫でも同じこと。竹を作って飾り立てる。保爺と書いてバオイェと言いますが、本当の父でない仮のお父さんが、子どもが生まれる前に願掛けで橋をかけます。最初に渡った男の人が義理のお父さんとなり、義父には、コメ一升、金一両を贈り、その他親戚たち、特に兄弟親族にもコメや銅銭などを贈ります。それらを元にして、子どもの腕輪や首輪を、銀や鉄、銅を素材にして作ってもらう。また、二月二日は敬橋節(けいきょうせつ)といって、橋に鍋を吊って食べ物を入れて、橋を通る人にいろんなものを食べさせるという儀礼をやります。このように、橋が霊魂の橋渡しをするということは、非常に重要なことです。また、作った指輪や首輪などは、全て十何歳頃まで着けます。その後ははずして、四十四歳に着けるというのがだいたいの決まりです。もちろんこの通りにはいきませんが、おおよその目安です。竹のことを、花の木、あるいはミャオ語でトウシャと言います。トウというのは木のことでシャというのは護るという意味です。腕輪はミャオ語そのままでいうとシュシャと言います。シュシャというのも護るという意味です。
沖縄の八重山群島では、木から落ちたり、あるいは躓いて倒れたりすると体から魂が抜けるということで、転んだその場で小石を3個懐に入れて戻ってくると、魂が戻るというふうに言われています。石そのものが魂の象徴をする、これを忘れてしまうと病気になるわけです。その時は、魂呼ばい(たまよばい)の儀礼をやる。それは、かみつと言ってシャーマンを呼び、麻糸を撚って七つに結ばせて、魂を司る神、便所神にお線香上げます。撚り糸を神殿に供えて、魂を返してもらう祈願をするわけです。これをタマシイユールと呼びます。つまり魂縒り、魂結いです。沖縄では便所神のことをふるがみとか不淨神と言って、非常にセジ(霊力)高い神だというふうに言います。ふるがみがよく拝まれるのはマブイグミ、魂を込めるとき。そうするとふるがみというのは、魂をどこからか探してきてやる、というふうに信じられています。(写真10)
本島の方では、産神(うぶがみ)です。山の神、厠神、箒神の全てが産の神、産神です。なぜかというと、霊魂との関係が深いのです。雪隠参り・便所参りをする風習がどこにでもあります。便所というのは井戸と同じように草葉の陰と言って、つまり霊魂というのは地下の霊界に生きるという感覚がある。八月遊びというのは八月の歌垣で、そのときは産井戸、あるいは死に水を取る井戸などの巡拝もあります。日本でも中国ミャオ族でも、子供の誕生儀礼は似ていて、生まれて三日目の便所参りや橋参り、井戸参りが行われます。
例えば、私の住まいは千葉県市川市北国分ですが、便所参りのときは、赤ちゃんのオムツを頭に乗っけて、霊魂を保護して便所にお参りします。つまり赤ん坊というのは暗闇の冥界から顕界に、この世に現れている世界に入ってきても、日が浅いからあの世の者ともこの世の者ともつかない。だから保護しなくてはならないので、頭に物を載せたりする。魂は非常に不安定なんです。
それから、生後百日目にお食い初めというのがあります。なぜお食い初めのとき、石を脇に置くのかというと、あれが魂なんです。つまり食べ物自体の高盛飯でもそうですが、食べ物は魂そのものです。なぜかというと、人が死んだら物を食べられない。食べればエネルギーが出て温かくなる。だから魂なんです。食べ物と魂は、非常に密接な関係があります。(写真20)