フットボールのヨーロッパ国別対抗戦、Euro2016というビッグイベントの最中、ナショナリズムが良くも悪くも高揚している時にEU残留か離脱かを問う国民投票が行われる(6月23日)というのはタイミングが悪すぎないか、あるいは、投票用紙にRemain(残留)、Leave(離脱)、どちらが先に書いてあるかが重要、ということをSainsbury Institute for the Study of Japanese Arts and Cultures (SISJAC)のスタッフが話していたのは、まだどこか、なんだかんだで、国民投票では多分Remain(残留)が上回るだろうという楽観的な見とおしを持っていたからではないかと、今にして思います。私が普段接するような研究所のスタッフ、大学関係者、アカデミアの人たちはほぼ全員残留を望んでいましたが、国民投票の結果はおおよそ52%対48%で離脱が上回りました。
普段、英国の数ある冗談のような事態に対して自虐的なユーモアを交えつつ語る私の周りの人たち(上記のように残留派の人たち)も、投票の結果が出た日は珍しくショックを受けているように見えました。新聞、報道機関のウェブサイトに掲載されたRemain(残留)・Leave(離脱)を色分けした地図やグラフによって、正式名称がUnited Kingdom of Great Britain and Northern Ireland(グレートブリテン及び北アイルランド連合王国)であるところの英国の中のそれぞれの「国」の間での分断、世代間の分断、特にイングランドでは都市部とそれ以外の分断、根強く残る階級間の分断を可視化されてしまったからかもしれません。それでも同じ週にEuro2016でイングランド代表が小国アイスランド相手に敗退してトーナメントから姿を消した時には、イングランドは週に2回ヨーロッパから出て行った、という英国らしいsarcasticな(皮肉な)物言いをあちこちで見かけました。
ユーラシア大陸の反対側、極東アジアでは歴史的な経緯、現在の外交関係も相まってEUのような各国の主権を超えた共同体は考えられない状態ですが、考古学の世界ではSociety for East Asian Archaeology(SEAA)という国際的な研究コミュニティがあり、その第7回会議(SEAA7)が6月上旬にアメリカ合衆国のマサチューセッツ州ボストンで行われました。4月にフロリダ州オーランドで開催されたSociety for American Archaeology(SAA)参加に続いてのアメリカ渡航となりました。オーランドのディズニーワールド内の会場となったホテルと宿泊したホテルとを往復する中での、ある意味アメリカらしい大味なジャンクフードのみの生活とは異なり、ボストンでは名物のロブスターやクラムチャウダー、チャイナタウンでの中華料理を楽しむことができました。
SEAA7では‘Spatial Analysis of Jomon Ear Ornaments: Toward Diverse Interpretations’と題した研究発表を行いました。フェローの期間が始まってから、TAG(Theoretical Archaeology Group)2015 Bradfordでは古墳とPublic Historyの関係、SAAでは縄文と左右イデオロギーの関係、この2つの国際学会以外では大和日英基金でアーチストとのトーク、SISJACのサポータークラブ向けに縄文とアートの関係、University of East Anglia(UEA)のノリッチ市民向けのイベントでは‘Japan’=「漆」について話してきたこともあって、今回は久しぶりに「狭い意味での縄文考古学」な話をしました。SEAAの参加者は中国、韓国、日本の研究者および東アジアに強い関心を持つ北米とヨーロッパの研究者が中心なのですが、セッションのテーマとしてはやはり中国の人気が高く、日本はまだ知名度不足の印象も持ちました。SISJACのサイモン・ケイナーさんはSEAA7では自身の複数の研究発表に加えて世界遺産を目指す沖ノ島のアピール活動にも奔走していました。それには及びませんが、おそらくこれまで国際学会では触れられたことがない話題を提供したことにより、多少はSISJACの目指すところに貢献できたことを祈るばかりです。
今回のSEAA7は、前半はハーバード大学、後半はボストン大学で開催され、中日にはセーラムという港町にあるピボーティ美術館へのバスツアーが組み込まれていました。アメリカ美術だけでなく、ネイティブアメリカンの美術、SEAAが研究フィールドとする東アジア各国の多種多様な美術を楽しむことができました。しかしボストン滞在も終わりに近づいた時、2ヶ月前に訪れたオーランドで銃乱射事件が起こり、英国に帰ってきた後には冒頭の国民投票の結果と周りの反応を目の当たりにし、複雑な気分の6月でした。