磐座神殿考 序
イギリス南部に今から4000年以上前につくられたストンヘンジは最近の研究で天文観測装置であることが明らかになった。
イギリス海峡をこえてブルターニュ半島の突端カルナックの直列立石遺跡はフランスでは今から6000年前につくられたとされているがその建造目的ははっきりしない。
ストンヘンジの建造目的をつきとめたのは考古天文学の発達によるのであるがカルナック遺跡に同じ方法が適用できないのであろう。とするとこの遺跡は天文観測装置ではなかったということになる。
天文観測といっても今から4000年以上前のことである。それほど精密なものではなかったと思われるが、なかなかどうして実は極めて正確な観測ができるようにつくられていた。但し主たる目的は冬至や夏至を割り出すために日没、日出の方向を計るだけのことにすぎない。
ストンヘンジでは直立する立石のうち向い合う特定の一対の石の二点を結ぶ直線の延長上に冬至の日没がくるから逆に日没と特定の二つの石が重なってみえる日が冬至なのである。
同じようなことをして夏至も知るわけであるが太陽だけでなく月や惑星の運動も観測できたらしいが詳しいことはここでは必要ない。また私自身その知識に乏しいからこれ以上の言及はできない。
ストンヘンジの直径は30メートル、高さ五メートルもあろうかという立石が30個も並びその上には30のまぐさ石がのっていた。またサークルの中には二石が一対となって六対U字型に配列されていた。この一対の石同志の間にもまぐさ石がのっていたところからするとそのまぐさ石上には木造梁がかけわたされサークル全体は屋根で覆われていたのではないかと思われる。
すなわちストンヘンジは完全な建築であったということである。木造部分は長い年月の風雨で腐朽し、跡形もなくなってしまい現在の姿になったのではないか。
それではブルターニュのカルナック遺跡はどうであったか。高さ3メートルから5メートルもあろうかという立石が2メートルほどすきまをあけて11列に3キロに亘って整然と柱列のようにびっしりと並んでいる様は圧巻である。しかしストンヘンジの立石は加工されているがカルナックのものには加工の痕跡はみられない。立石の上にまぐさ石がのっているわけでもない。
ストンヘンジは建築的加工と架構がなされているがカルナックにはそれがない。建造年代もストンヘンジはBC2000年頃、カルナックはBC4000年頃と2000年の開きがある。
ストンヘンジの建造年代よりも1000年ほど以前にエジプトには高度な建築技術を駆使したギザにピラミッドばかりではなく純然たる柱列のある石造神殿ができていたからストンヘンジが石造を木造の混淆した建築、神殿であったからといって驚くにあたらない。しかしカルナックの直列遺跡の時代には石造柱列建築の建造技術を人類が獲得していたとは思えない。
カルナックの立石は二列に並んだ人間を思わせ長大な列を石化したのではないかと思わせる。エジプトではこれから1500年後になって柱列建築に進展した形式をみせている。
すなわちカルナックは石造柱列神殿の祖形だったのである。
ところで日本のことになるが十和田湖の南、秋田県鹿角市にある大湯ストンサークルはBC2000年を少し遡る建造といわれている。ストンヘンジの同時代かそれより数百年古い。縄文後期の遺跡とされている。
ストンサークルは直径40メートルで渦巻状に川原石がまるで星雲のように地上に配列されていて、中心には高さ1メートルほどの立石を囲んで放射状に棒石が敷並べられた日時計石と呼ばれる組石がある。同型同スケールのストンサークルが二個並んでいるが縄文時代人は星雲を何らかの方法によって知っていてそれを地上に描いたに違いない。大湯ストンサークルよりも古いと思われる南米ペルーのナスカ の地上絵などのスーパーグラフィックが夜の天球を写しているのはほぼ間違いないことからしても縄文人も相当精細に宇宙を知っていた。というよりも高い関心を抱いていた。
最近、知人の柳原輝明が発見した奈良県大和高原山添村の巨石と川原石による長さ500メートル巾30メートル強の天の川と三恒星のスーパーグラフィックは実は正確に夜空を写しとっている。柳原はBC2000年の夜空という。勿論考古天文学による解析の結果であるから異論をさしはさむ余地はない。
フランス-カルナック
しかし「大湯」も「山添」も平面的であって、ストンヘンジやカルナックのように立体的に、建築的ではない。それでも二遺跡ともに神殿であったと思う。この平面的組石を木造屋根で覆った気配はない。もしあったとしたら屋根を支えるための柱の穴が見られるはずなのに皆無である。それでは何故両遺跡が神殿なのか。
ストンヘンジもカルナックも乾燥地にあるわけではないがうっそうとした巨木の森のある場所ではない。両方とも背の高いヒースのような野草は茂っていても野原の真只中にあった。しかし日本は巨木の森林が覆う。日本の両遺跡ともにそんな森をまるで穴のように伐り開いてつくられたからこれを囲む森が建築の役割を果たした。日本列島は深い樹海、樹海は建築。すなわち列島自体が無限広大な建築空間だった。幹が柱、枝が梁、葉群が屋根であるのはいうまでもない。
両遺跡は森の闇、いいかえると建築の闇をつき破った光明の神聖空間だった。その神聖空間が何故夜空を写しているのか。
これを知るためには縄文人の精神に立返らなければなるまい。青森市の三内丸山では住居の中に子供の死体をかめ棺に入れて丁重に埋葬しているが大人は戸外の土中に直接埋めている。それだからといって縄文人が大人をぞんざいに扱ったとは思えない。ストンサークルに死体が埋められていた痕跡がかすかにある。墓地説がたえない理由である。
しかしこれは単純な墓地とはいえないであろう。大湯も山添も夜空を写し一つ一つの石は星をあらわしているに違いない。
つい近年まで人は死して昇天し霊となって星になるか星に宿ると信じられていた。縄文の人々にはその思いが一層強かったであろう。子供は力弱く星に辿りつけないから家の中に丁重に葬るが大人は夜空に駆上がり星になるか宿ることができると考えたはずである。
両遺跡の一つ一つの石ころは無数の死者の霊の憑代でもあろう。 最近アメリカでは前世療法が盛行しているらしい。精神病は幼児のときのトラウマが抑圧を生み出すから発症する。この抑圧をとりのぞいてやると治癒する。病の原因であるトラウマを探り出すためにその事件が発生した時まで患者を催眠によって遡行させる。
それが母親の体内で発生している場合もあり、そうなると患者は胎児まで戻らされる。フロイトの療法として有名であるがこれが極端化したしたのが前世療法なのである。
トラウマは輪廻転生してきた前世の人の事件であり、これをつきとめると治癒するという。これには異論もあり特に輪廻転生に疑問が発せられている。
しかし精神病と無関係に輪廻転生を数百例世界各地で調査研究して証明している学者の報告があり、この報告書の信憑性はきわめて高い。スティーブンソンというが彼の著書によれば霊が転生するまでの間を過去世といい、だいたいは樹木に宿っているとのことである。
このことからして縄文人の霊も過去世には樹海の木々に宿ったのが更に霊が進化して聖性を増し、遥か彼方の星に宿ることを人々は最高の理想としたのではあるまいか。
だから地上に無数の星を写し、霊の憑代とした。こう考えても不自然ではあるまい。
私が巨石遺跡に興味を抱いたのは30年以上前になる。『古事記』の神武天皇記を読んでいるとやたらに石造建築を思わせる記事がでてくる。直接磐室とはいっていないのだがどう考えても石造建築を大集会場に宴会をしているとしか思えない大和地方の先住民の様子が活写されている。
神武天皇は弥生時代初期の人物に仮託されているらしい。伝説のように神武が2600年前の人物だったとすれば縄文晩期の大和には石造建築が建並ぶ風景が展開していることになる。当時大和盆地は琵琶湖と同じ広さの湖であったからそのありし日の大和を想像して模型、ドゥローイング製作をして『大和に眠る太陽の都』と題する個展を大阪の心斎橋ソニーと東京銀座で行い評判になった。これ以降三輪山山頂に登って巨大磐座をみたり、更に用事で九州、四国、東北などに行くごとに巨石の存在を探り実見に赴くといったことが続いた。今では世界で知られる巨石遺跡はほとんど実見したといっていい。磐座は神社の御神体になっていることも多いが、神社もいつしかなくなり御神体の巨石だけが取り残されていることが多い。
全国の神奈備山と巨石分布を図にしてみると一辺48.2キロの整然とした正三角形二つ分の菱形ネットワークとなることを発見した。詳細は『縄文夢通信』(徳間書店)に書いたが残念ながら今では絶版同様状態にあり読んでもらうことが出来ない。この本を出版した後、海外至る所にこの「縄文夢通信」ネットワークがありエジプト、ギザの三大ピラミッドもその通信装置であることがわかってきている。更にアトランティスの位置もつきとめ『発光するアトランティス』(人文書院)を著したがこれはいまでも手に入るはずである。
いずれにしても縄文時代の一万年全期間はそのまま新石器時代にあたる。新石器時代最高の文明表徴はエジプトのピラミッドをはじめとする石造神殿である。
今西錦司博士によれば種の一個の獲得形質は同時に種全体に表れるというのであるから縄文の日本人にもピラミッドのような高度石造技術が可能であったはずである。しかし縄文人は夜の天空を直写した石コロによるスーパーグラフィックで彼等の表現欲求を満足させた。
ナイル河沿のギザの三大ピラミッドはオリオンの三星、ナイル河は天の川を表わしているという説も傾聴に価するが山添村のスーパーグラフィックの正確さには及ばない。縄文人は霊が天に飛翔すると同時に地下にしみ入ることを願って数々の磐座をつくったに違いない。
国際縄文学協会会員
建築家
秋田市角館生まれ。福井大学建築学科札。渡辺豊彦建築工房主宰
京都造形芸術大学教授
主な著書に『地底建築論』、主な建築作品に吉岡邸1・1/2、西脇市立古釜陶芸館がある。