東京の縄文ランドスケープ観測の遺跡
はじめに
縄文人は、年間の日の出や日の入りなどの天体観測により二至二分を認知し、往々にして観測する特別の場所に記念物を構築していたことが、次第に明らかにされつつある(小林達雄編 2002)。
記念物となる環状列石や巨木柱列が設営されたような場所からは、春分・秋分・夏至・冬至に神名備型をした山の山頂付近に日の出や日の入りが観測できることがある。町田市小山町にある「田端環状積石遺構」もそんな記念物のひとつといえる。
環状積石遺跡の現況
田端遺跡調査報告書より
出土した遺物の色々
積石遺構の調査概要
遺跡の発見は昭和43年(1968)にさかのぼる。「畑の土中に石が埋まっている・・・・」という耕作者の通報を受けて、町田市文化財専門委員で玉川学園考古学研究会を指導していた浅川利一氏が中心になり、3月から5月にかけて170㎡を発掘した。田端の調査現場は、私たちが多摩ニュータウン遺跡調査の仮事務所にしていた多摩市唐木田から、丘陵の尾根をはさんだ反対側にあった。知らせを受けた私たちは、山桜が吹雪のように散っていた春の一日、唐木田と橋本駅をむすんでいた神奈川中央交通のバスに乗って発掘見学に出かけた。一抱えもある大きな立石と積石がごろごろ姿を現していて、東京にもこんなストーンサークルがあったのかとびっくりしたことが、つい昨日のことのように想い起こされる。
積石遺構の存在が明らかになるとともに、周囲およびその下から、縄文後期前葉の加曾利B1~B2式土器が副葬された土壙墓や周石墓の存在も確認された。ことの重大さを察知した浅川氏は、遺跡の保存を優先するために発見された状態で記録するに止め、積石の内部や下は調査されなかった。町田市は直ちに周囲280㎡を買い上げて保存整備に努め、東京都教育委員会は1971年3月に東京都史跡に指定した。 その「田端遺跡調査概報」(町田市教育委員会1969)によれば、環状積石遺構は東西に長径9m、南北に短径7mの楕円形をなしており、幅1~1.5mに大小の石塊や礫を集め、帯状に積み上げてサークルを形成しているという。東と西の部分では石が少ない状態がみられたが、これは撹乱を受けて石塊が多少抜かれたものと考え、原形は全体にほぼ同じ状態に積石がめぐらされていたのだろう、という。出土した土器から、積石遺構は後期中葉に構築されて晩期中葉まで機能したものとされた。浅川氏はこの特殊な積石遺構の性格をさぐるために、継続して台地にいくつか試掘坑を入れてみたが、積石遺構に関係する集落は発見されず、むしろ中期の集落が広がっていることが確認され、また西側に晩期中葉の包含層が検出された。
その後しばらく進展がなかったが、多摩ニュータウンの開発にしたがい、積石遺構をとりまく状況が次第に浮き彫りにされた。まず、積石遺構のすぐ東側に都道2.1.5号線(多摩ニュータウン通り)が建設されることになり、1987・88年に町田市教育委員会が調査した(田端東遺跡)。このときも中期の住居跡群が検出されたが、積石遺構に関係する加曾利B3式期の住居跡がはじめて1軒検出され、東北地方で作られた中空土偶の頭部が出土した。
さらに多摩ニュータウン遺跡の悉皆的な調査で丘陵側の実態があきらかになった。ニュータウンの範囲は、積石遺構からわずかに50m離れた裏山から境界が線引きされている。東京都埋蔵文化財センターが発掘調査したすぐ裏山の№245遺跡からは、縄文中期から後期前葉の集落が、奥側の№248遺跡からは、同じ時期の大規模な粘土採掘坑が検出された。ここからも後期中葉以降の集落は見つかっていない。
平成12年度になって、町田市教育委員会は、露出展示などにより環状積石遺構が次第に劣化してきたとして、積石遺構の保護・保存を含む史跡整備事業に伴う周囲域の詳細分布調査を行った。この調査成果を要約すると、
• 加曾利B1式期の土壙墓群が積石遺構の斜面下方15mまで確認され、墓域の南限とされた。
• 北西の斜面上方に湧水地があり、その流路に関係するらしい大規模な溝が積石遺構の西13mに確認された。
• 南側の標準的な土層と対比すると、積石遺構範囲の堆積土層は縄文中期以前の包含層が欠如しており、また15~30cmほどの厚さで平安時代の新期富士降下火砕層が積石遺構を被っている。以上のことから、
• 積石遺構の構築時または前時代の墓壙形成時に、土地が人為的に改変された可能性が考慮される。
• 積石遺構からは南方の眺望が優れており、丹沢山地蛭ケ岳頂部に冬至の夕陽が沈む様子が確認できる。季節の節目に太陽の運行が観測できる東日本の各遺跡より報告されていることから、本遺跡もその一例に含まれ、積石遺構もしくは墓域の選地と関係があるのかもしれない、とむすんでいる(町田市教育委員会 2003)。
田端遺跡と蛭ケ岳の位置関係
田端環状積石遺跡および同石墓-土壙
(写真)
著保内野土偶と田端東土偶復元図
著保内野土偶と田端東土偶復元図
なぜこの場所なのか?
地図上に蛭ケ岳山頂の方向を示した。どうしてここに環状積石遺構が設営されたのか不明であった。その謎を解いたのは、町田市教育委員会に勤務する風水研究家の松本司氏である。「冬至の日、田端のストーンサークルから蛭ケ岳の真上に太陽が沈むのがみえるのではないか・・・」と直感した松本氏によれば、「蛭」は本来は「昼」、つまり光と太陽を意味する言葉ではないかという。蛭ケ岳(標高1673m)の頂上には大日如来が祀られている。その蛭ケ岳のピークに太陽が落ち、やがて背後に太陽が回ったとき、「後光がさす」言葉の本当の意味がわかったような気がしたという(松本1999)。遺跡からS58°W、正面に位置する丹沢山地の最高峰に沈む冬至の太陽を、私も固唾をのんで見守ったことであった。
それではこの遺構がなぜこの場所に設営されたのか、またどういう性格であろうか。この環状積石遺構の形態が、中期の環状集落の構成に共通することに、一脈のむすびつきを考えてみたい。中期に繁栄した典型的な環状集落は、環状とはいうものの中央の広場をはさんで向かい合う二大群の住居群で構成されており、それぞれ大群は3単位の住居からなる(安孫子 1997)。この積石遺構も北・南の二群に分かれており、それぞれ立石を中心にした3単位の積石群で構成されている(図参照)。
西関東では、環状集落の規模が中期後葉から終末に向かってしだいに縮小し、やがて敷石住居に変わる頃に衰微する。しかし、環状集落を構成した集団の紐帯が離散したのではなかったらしいことが、この環状積石遺構の構成に反映されているようである。この地域の一帯に居住した末裔たちが、後期前葉になってこの場所に集団の共同墓地を設営したようなのである。それを追求し実証することは、まさにこれからの課題である。
彼らは、冬至を境に弱まった太陽光線がふたたび甦ってくることが観測できるこの場所を集団の聖地たる共同墓地に定め、毎年冬至の日に集いあって蛭ケ岳に沈む夕日を拝みながら、先祖の加護により集団の安寧と繁栄を祈願する祖霊祭を執り行ったのだろう。だから、この地が意識されたのは集団墓地が造営された加曾利B1式期になるが、あるいはもっと以前からかもしれない。
「田端環状積石遺構」の構築とは、その平穏だった集団墓地の上に、親縁集団が総力を結集してモニュメントを築かなければならない新たな事態が生じたことによる。その構築の背景には、東関東の安行集団の侵攻による西関東の高井東集団の危機感があり、このために東北地方も北部で作られた著保内型土偶が勧請されたのではないか、と考えたことがある(安孫子 1992)。
田端遺跡は、京王相模原線多摩境駅から徒歩5分の至近にある。町田市では、平成16年度に、これまで露出展示されてきた積石遺構を原位地で嵩上げした複製展示に切り替え、周囲を整備する計画という。この場所で縄文の人たちが仰いだ蛭ケ岳に落ちる冬至の夕陽を、これからも未来永劫変わらずに見つづけることができるよう、周囲の景観が維持されることを祈りたい。
(写真)
蛭ケ岳に沈む冬至の日没
蛭ケ岳に沈む冬至の日没
参考文献
• 1969『田端遺跡調査概報』町田市教育委員会(浅川 利一他)
• 1992「田端東遺跡出土土偶の意味するもの」『東北文化論のための先史学歴史学論集』加藤稔先生還暦記念会(安孫子 昭二)
• 1997「縄文中期集落の景観」『研究論集』16 東京都埋蔵文化財センター(安孫子 昭二)
• 1999『古代遺跡謎解きの旅』小学館(松本 司)
• 2002『縄文ランドスケープ』有朋書院(小林 達雄編)
• 2003『田端遺跡』町田市教育委員会(貴志 高陽)
安孫子 昭二(あびこ・しょうじ)
国際縄文学会協会会員