International Jomon Cultuer Conferrence|縄文土器/土偶/貝塚/勾玉など縄文時代/縄文人の文化を探求する考古学団体 (▼△▼)/

■ 『日月を放つ縄文の巨木柱列・1』 萩原秀三郎


◆平成15年5月 講演録

はじめに
 萩原先生は、民俗学の先生で、柳田の民俗学の水稲農耕の関係から、雲南や西南中国近辺の稲や、ちまきを含めて調査されていました。西南中国だけでなく、北東アジアのシャーマニズムとの関係でも調べられ、ベトナムの犠牲の柱というような場所でも調査し、幅広くご活躍されております。今日は民俗学の分野から縄文をお話して頂きます(関俊彦先生)。

 今ご紹介に預かりました萩原です。もともと民俗学をやっておりますが、出身は歴史で、始めから物の見方が歴史的ですので、縄文にまったく無縁ということはありません。

 例えば玦状(けつじょう)耳飾という耳飾の類が縄文前期にたくさん出ています。玉で出来たものや泥、あるいは蔓でできているものなど、多く出てきていますが、どの本を読んでもアクセサリーという解釈で、縄文人はおしゃれだと書いてある。しかし、そういうことではありません。東アジアの世界で見ても、輪をかけるということは魂の脱出を防ぐための命がけの作業です。中国の北部から、南を通って東南アジアの方まで、全てこういう意識だと思います。魂というのは体の中に入って、いつなんどき脱出するかわからない。そのために両耳の穴ですとか、穴と言う穴に鍵をかける必要があるのです。

 そのための儀礼はたくさんあり、生まれて一週間、あるいは一年という節目に輪をかけます。男も女も、生まれてまだ魂が弱いとき、それから歳をとって、また魂が弱くなったときに行なって、中間の体力が旺盛なときにははずしていい。もし、この輪っかを紛失した場合、大変な騒ぎになります。つまり命に関わることですから、シャーマンを呼んで、人に探してもらいます。そのくらい大袈裟なことであるのに、考古学にいたっては「おしゃれ」という解釈で、どれをみても例外なしにすませてしまっています。

 同じように柱にしても、天と地上と地下というような主に三層に別れている世界観を繋ぐときには、必ず柱が必要になります。このようなダイナミックな意味の要素が込められているにもかかわらず、祈念碑であるとか、何を世界観といっているのか、どれを読んでも実際はよくわかりません。

 また、太陽を計測して時間を知ることは、生業が漁撈であろうが農耕であろうが、縄文カレンダーとして必要です。柱を立てて、その影によって時間を知るというのは、どの民族にもありますが、それぞれの柱は、宇宙の秩序付けの中心になるものです。例えば中国・江南のミャオ族などが村を建てるときに、まずヘソという意味のミャオ語を使って、村の中心を先に決めます。最初に広場を作って、真ん中を決め、そこへ柱を建て、鳥を止まらせて太陽を呼びます。鳥というのは朝さえずると太陽が出るように、いつも太陽と関係します。ヨーロッパへ行くと鳩時計がありますが、時を知らせるのは鳥なんです。

 柱を村のヘソ、中心にして、集落と言うのは自然に広がって行きます。始め、広場に家は一軒もなく、まずヘソを先に作る。混沌たる世界にまず中心を決めて、宇宙の秩序を整える、それには柱が必要なのです。それによってようやく天地創世の神話が始まります。混沌から秩序へ。そのための柱なのです。だから家を建てると言ったらミャオ族でも、大黒柱を先に建てます。それからだんだんといろんな柱を建てていく。

 出雲をみても、いわゆる九本柱の真ん中の一本、これが中心の柱です。出雲の中心の柱が必ず岩根御柱で、一番大事なものです。弥生中期の田和山遺跡にしても、中期というのは実に多いです。「田の字型の民家」とよく言いますが、田の字型の場合にも、中心があって大黒柱があります。出雲大社もそうですが、田の字型の民家の研究がたくさん出ています。九本が実際に必要と言うより、一本中心があって、他の柱はある意味では覆いです。三内丸山にしても、ほとんど今までの説というのは、物見とか神殿であるとか、覆いをかけなくてはいけないことになっています。でも、最初からそういうことはなく、やっぱり柱は柱としての意味がある。これは非常に世界観として重要な物です。一本であろうが何本であろうがです。

 それから、集落は必ずしも中心にあるだけではありません。中心にあったものが周辺に移動してしまう例が実に多い。集落が発達してくると、村境の方へ柱を持って行く、あるいは村の入口にそういうお祭り広場を作る。それでは中心ではないじゃないかと、思われるかもしれません。しかし、柱というのは、どこに建っていようが本来中心という意味を持っています。中心でなければならないものです。

 少し前置きが長くなりました。いわゆる縄文人が太陽の計測に熱心であったというのは、小林達雄さん以降、いろんな方がおっしゃっています。例えば栃木県小山市の寺野東遺跡などです。太陽を計測すると言うのは、いろんな日時計的な役割をするという例があります。環状列石になると、少し時代がずれますが、巨木柱列の方がもっと古いです。

 去年(二○○二年)、山形県の長井市で、長者屋敷という遺跡発掘のシンポジウムがありました。ここも、縄文中期の柱が立っていて、集落の西北に位置しています。民俗学でいうと乾(いぬい)で、屋敷神がある方向です。陰陽五行でいうと、丑寅の鬼門といい、東北をさします。これはある意味では新しく、平安の陰陽道が発達してから出来たものです。それ以前は、死霊がやってくる方角はみな乾、つまり西北です。西北の隅から霊魂が風に乗ってやってくるというのが、はいて捨てるほど民俗学の事例としてはあります。例えば、屋敷神・死霊をお祭りするときに、屋敷の乾の隅に祠をつくって屋敷の神様を祀るというのが典型的なものです。鬼が出てくる方向もみな乾です。狂言の節分にしてもそうです。室町時代の『御伽草子』、一寸法師の話を読んでも、古い鬼が逃げ帰るのは、乾の隅の極楽だと。民俗芸能に出てくる鬼の岩屋というのは、乾の方向にあるんです。

 三内丸山でもそうですが、集落の乾の隅に柱が立っていたということは、後でいろんな例を挙げますが、霊魂がやってくる方位ということです。単なる太陽を計測しているだけではなくて、長者屋敷の場合でもその中心にお墓と思われるものが出てきています。三内丸山でもお墓の図があります。三方方向から、乾の方向の柱に向かって道があり、その道の東と南と西の道の両側に遺体が埋まっていて、足が道の方向に向いています。収斂していく先に六本柱の柱列がある。巨木が立っているところは、死霊をお祭りしているという意味がなければならないんです。ところが青森教育員会の方によると、これはお祭り広場じゃないと。お祭りは当然盛り土でしか考えられない、というようなことをおっしゃっていますが、そんなことはなく、この広場で死霊を、祖霊をお祭りしたというふうに考えられます。

 最近、大田原潤さんという方が、三内丸山の六本柱について、二至二分、冬至夏至、春分秋分、日の出、日の入りを計測したものに違いないという説を出されました。かなり綿密に計測し、コンピュータでシュミレーション化して発表しています。私はそのとおりだろうと思うんです。この場合、縄文の巨木と巨木の間の間隔というのが、非常に重要になってきます。一般の民家や竪穴住居ではない、共同体の大きな建物や、お祭り広場の柱の間隔は、必ず三十五センチを単位としていて、それを二倍、四倍、六倍、十二倍というように、ものさしが決まっています。それをいわゆる縄文尺と言っているわけです。

 この縄文尺について、岩田重雄さんという方は、中国の新石器時代の平均値が十七・四㎝で、これが日本へ入ってきて、このような尺度が生まれたのではないかと言っています。それを受けて藤田富士夫さんも、そうに違いないと。当時、中国の新石器から殷にかけて、尺度が用いられているものだから、殷尺であろうとおっしゃっています。三十五㎝の単位は人であると、中指の先端から肘である可能性はありますが、どこでも同じように三十五㎝という決まった数値でものさしを決めていくというのは、やはり伝播していった可能性が高いです。

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