さて、先ほど申し上げた玦状耳飾ですが、これも環日本海的な文化なんです。縄文前期からたくさん出ており、ものすごく流行して伝播しています。さきほどの長者屋敷にも行きましたが、耳栓があって、ものすごい立派で艶のある玉でした。あれほど立派な物をつけられる人はごくわずかです。一般的には、おそらく蔓で編んだようなものだと思います。現在でも奄美の方へ行きますと、桑の皮を剥いで、作っています。
耳飾、耳栓、首輪というようなものは、魂の脱出を防ぐための物で、関節のあるところから魂は抜けやすく、ありとあらゆる穴が空いているところから、ひょいと悪い物が入ってこないように防ぐという意味も本来あります。いずれにしても魂というのは、出たり入ったりするので、それを閉じ込めておくためにあると。実は、こういう呪いというのはギリシャやヨーロッパの方まで言い伝えがあります。くしゃみをすると糞食め(くそはめ)といって、魂の脱出を防ぐ、汚い言葉をあわてていいます。あれも似たような呪いがあったわけです。
玦状耳飾ですが、遼寧省の最古のものは、査海という遺跡から出ています。それが今から七千六百年くらい前。そのあとだんだん伝播していきました。長江の下流域のところにある、河姆渡という七千年前の稲作遺跡があります。そこからもたくさん出ていますが、そういうものが間違いなく日本へ伝わってきたと思います。実際に中国大陸との交流があったと考えられているのは、山形県遊佐町のミサキ山A遺跡です。これは殷代のものとされているような、青銅製の刀子が出てきています。また、羽黒町の中川代遺跡、中期ですが、甲骨文字風の記号が刻まれた、有孔石斧が出ています。それから青森県平舘村の今津遺跡からは、いわゆる三つ脚の土器、三つ脚の鬲というのは古代中国ですが、青銅器の中にそれとそっくりの模造品と見なされるようなものが出ています。そして、福井県桑野遺跡からは、縄文早期から前期にかけて、配列のされ方が大陸の匕形器そっくりのヘラ状の装飾が出土しています。
このように、中国大陸と、環日本海的な文化的な交流があったというふうに考えられるわけです。古くはもちろん新石器なんですが、新しいところでは殷代の文化。非常に日本の古代文化と類似しているということは、昔から言われています。これについては、貝塚茂樹さん、柳田國男さん、最近では白川静さんが懸命に殷との類似をおっしゃっています。また、朝日新聞によると、五百年遡って、周に滅ぼされた殷の末裔が亡命して日本の稲を広めたのではないかとまで、言われるようになってきています。
いずれにしても非常に殷の文化と類似している事が多いです。先ほどの乾の隅の思想というのは殷にあるんです。これは中国古代の喪葬の儀礼を研究した人がおりまして、特に『礼記』という中国の古典を使って、その中の喪葬儀礼をいろいろ調べたら、西北の隅から死霊がやってきて、そしてまた、去来すると。死んだ人がいると、西北の隅、つまり太陽が出てくるのは東で、東南が輝きを増してきます。一番暗い反対側が西北の隅です。だから、いつも太陽との関係で、一番暗いところに死霊というものがいるというふうに考えられてきた。お祭りのときも、人が亡くなると、部屋の西北の隅に、遺体を埋けるところがあって、それは私自身も見てきました。
中国の白褲ヤオ族。白褲ヤオというのは人が亡くなると、すぐにお葬式は出しません。家の隅の暗がりのところへ埋けておきます。稲の刈り入れがすむと、いわゆる生産暦でいうお正月になります。そして正月になると、それを掘り起こして洞窟に本葬し二次葬をするわけです。一次葬と二次葬の間が長い民族は多いですが、古い民族は、非常に短いです。谷田孝之さんは、殷代のものが元になって、神霊を祭るということが出てきたのではないかと言っています。
縄文、弥生もそうです。例えば、出雲風土記では、荒神谷や加茂岩倉、あの郡の乾の隅に、宝が埋まっていると言うことが書いてあります。それで実際出てきました。両方とも乾、西北で、埋けてあるものが東南へ向けて埋蔵してある。そういう事に気づいている考古学者は残念ながらいません。実際、そこに行って磁石で測ると、みんな西北の隅で東南の方に向かってる斜面なんです。その前に鏡が出てきたでしょう。あの古墳が、西北の一番手前にあります。日本民俗学で、国学院の三谷栄一さんという方が昔、日本文学の民俗学的研究で、乾の信仰をいっぱい掘り起こしています。そういうものはすべて今、異界ばやりで丑寅の方向に向いていて、誰も改めて言いません。日本民俗学では、ずっと気がついていましたが、いっさい無視されています。
三内丸山の集落を見ても、西北の隅に六本柱があって、その向こう側に川が流れています。河岸段丘の二十mほど上に、集落がありますが、後ろが崖になっていて、その向こう側が川。つまり三途の川と考えるといいです。三途の川というのは、新しいようにみえますが、いろんな民族では、川向こうは他界です。例えばミャオ族も、遺体を乗せて船を漕ぎ、船葬と言って岸辺で行うこともあります。心情的に、霊魂の行く先は、川向こうというのがどの民族にもあるくらいで。装飾古墳などでも、船があって日輪があって、他界へ船が行くと。三内丸山の場合も、最初は海上他界ではないかと言っていました。確か、南の方だけにしかでてこないときですが、その後、東も西も出てきたので、説明がつかなくなったのです。
中国の銅鼓の絵模様は、みんな船が出てきて、漕いでいる人がいます。これはつまり、川向こうが他界ということであって、海上他界ということは無い。他界へは船に乗って行くんですが、船があったら海上他界と思うのは間違いです。三内丸山の場合も、河川は縄文時代からあったといわれてますから、向こうが他界だという意識があったのだろうと思います。
このようなことが、なぜ、埋葬と宇宙観が結びついているかというと、例えば立派なリーダーが死ぬ、そうすると、いわば死の尊厳のようなものを感じ取ると思うんです。そして天寿を全うした死霊は、祀り手となる子孫がいて、死後も祀りがあって、だんだん立派な祖霊になっていくわけです。ところがお産で亡くなったり、交通事故で亡くなったり、病気で亡くなったり、夭折する場合は、いわゆる異常死者となり、子がいない、子孫がいないわけです。亡くなった後の慰霊、年忌を経ることがないから、夭折者の霊というのはあの世へ行けません。あの世へ行ってしまうのは、いい鬼なのです。
昔、吉野山で、鬼に出会った商人の話があります。鬼がめそめそ泣いている、お前どうしたんだといったら、自分は恨みを呑んで死んだ者だから、あの世に行けないで泣いているんだと。しかも恨みの相手は三代、四代に渡って取り殺し、四百年も生きているが、まだ、その後、生まれ変わり死に変わりする連中を探すことが出来ない。自分は年忌がないので、あの世へ行けないと。そういうのが悪い鬼なんです。
つまり他界というのは、いい祖霊しか行けません。いい神霊が行くところが栄えて、それが六本柱の向こうです。悪い神霊は別なところに埋けてあるはずです。あるいは子どもです。子どもも、別なお墓が必要です。というのは、子どもというのは、まだ生まれてきたばかりで、七歳までは神の子で、あの世の物とも、この世の物ともつかない、子どもの霊魂というのは、境の領域にいます。例えば、家の敷居の下のところに埋けて、女の人がこれを跨ぐ。跨ぐということは、穴へきゅっと、霊魂が奇遇してきます。タマヨリヒメというのがあります。タマがひょいと入ってくるから、タマヨリヒメ。魂が抜けてしまうと、ナキガラ。とにかく肉体を提供するのが女性で、魂を提供するのは、他界の霊魂なんです。それがしょっちゅう入ってくる。その通路を容易にするのが、男性の役割ということです。