International Jomon Cultuer Conferrence|縄文土器/土偶/貝塚/勾玉など縄文時代/縄文人の文化を探求する考古学団体 (▼△▼)/

■ 『沖縄の風水史・1』 渡邊欣雄


◆平成15年 講演録

 今の沖縄の風景は、ほとんど風水判断によって基礎が作られており、現在に至っています。私は文化人類学、社会人類学を専攻し勉強してきましたが、1950年代・60年代の文化人類学は、歴史学よりもはるかに考古学に近い研究があり、私はそのような分野の先生方に習っておりました。人類の先史時代研究と我々の人類学研究がほぼ一致していた時代が50年代だったと思います。ところが人類学の理論や認識が変わってしまい、今人類学研究というのは現代研究が主流ですから、現代と言う問題に関して研究せざるを得なくなりました。つまりグローバルな政治・経済状況に各社会や文化がおかれていますので、それらグローバルな現代状況との関係で調べて行くと、どうしても現在研究になってきてしまいます。最近は、縄文時代とこちらの時代の関連を研究していく研究はほとんどありません。小山修三先生のような方がいらっしゃった時代や大林太良先生などが、縄文期の社会組織を復元されていました。あのような夢がいまでも研究上実現できるなら、本当にいいわけです。私の先生は石田英一郎先生や岡正雄先生です。『日本民族の起源』という座談会を八幡先生や江上波夫先生が議論していた時代は、本当に考古学と関心が同じでした。その教え子の時代になったら全く関心が変ってしまった。

 さて、始めに風水の概略的な話をします。今、占いが流行っていますが、あれは我々の社会がヨーロッパの近代を受け入れて、その後に占いというカテゴリーがどんどん発生した結果です。今は風水も本当に占いに特化してしまっています。それ以前は風水というのは国の学問、国家的な学問でした。なのに今の地理学者の多くは当時の地理学をあまり知りません。実は日本にも韓国にも中国にも東アジアに伝統的な地理学があったのです。それは非常に実用的な学問でした。環境アセスメントに近い。つまりなにか物を建設する時に事前に環境の影響を判断した上で建物を建てるとか、穴を掘るとか道路を作るとかそういうことをやってきたすごく深い歴史があるわけです。それを風水といいます。それが占いに特化してしまったというのは、いまの国家公務員の知識の中に採用されていない証拠です。唯一占いでない分野として残っているのが気象庁です。今の気象観測だけが占いから外れている。明日は晴れるか否か、吉か凶か。そういう、気象判断による一年後、二年後を占っても吉か凶かで判断できますし、それを占い化してもいいわけです。

 同じ分野として、気象観測では風水、天体観測では天文方というのが江戸時代にもありました。中国には欽天監という役所があって、天地を観測していました。著書にも書きましたが、東アジアの考え方の中に、〈気〉という考え方あるんです。気のエネルギーを利用して何か物事をしようという考え方がある。これは我々科学の中でもいわゆる東洋漢方に可能性があることがだんだんわかってきています。しかし風水は科学にはほど遠い考え方です。その当時、地の気という考え方があって、地の気の影響で人間の生活が変ってくるといった考え方が、数千年支配的だったのです。ですから地の気を使い、できるだけ良い気の影響を受けて国の都を作るとか、古墳などのお墓を作っていく、あるいは宅地を作っていくというようなことが東アジア一帯で行なわれていました。その記録は非常に豊富です。

 理想地形のひとつが(図1)で、これは古代中国の人たちが描いてきた地形の書き方なので、我々から見ると非常に馴染みにくいですが、黒が山並み=山脈です。住空間はその山脈に二重に囲まれていますが、どうも気は山並みの形に従って降りているようです。そして穴(けつ)という字がありますが、気の集中しているスポットです。そこに都市や宅地、お墓などを建てると、都市においては生きている人間に、お墓においては子孫に影響を及ぼすという考え方がある。これを見ても平安京は全くそのとおりの地形になっています。このような環境の中に都市計画や住宅計画を作るプランなんですが、こういう四角の平面空間を九つに分割して都市をおくわけです。そうやって人間が作った造形物を置くと、そこが風水の影響を受けて、それぞれのグリッドの意味が変ってくる。

(図1)理想的風水図
ファイル 71-1.jpg

 だいたい古くはAの部分が一番気が集中すると考えられていた。ところがだんだん時代を経て、北魏・洛陽の時期あたりに、D、こちらの方が気が集中する場所といって宮城=都、皇帝の住宅を置くということになってくるわけですが、いずれにしても、ここに宮室をおくというプラン、これが風水の理想形ですし、当時の科学でした。『日本後記』、日本の六国史の著述を見ますと、桓武天皇は平安京を遷すときに、地形の形があたかも城のごとく都市と同じではないか、と言っています。「地形が都市のかたちをしている。つまり「山」が「城」(都市)である。だから、山背国(やましろこく)を、山のお城の国にせよ」と言い、京都周辺を「山城国」という名前に変えてしまいました。京都の山並みの囲みがすなわち都市の形と全く同じだと言ったわけです。山と城が同じ形をしていると判断した。山城国というのは、そこから来ているわけです。これはまさにそのとおりで、このような囲みが山です。ここに朱雀大路があったわけですが、広場――風水では明堂(めいどう)といいますけど、大空間をあらわすような朱雀大路があって、まさにそのようなプランを京都の地形に読み込んだわけです。ですから山の形はすなわち都市の形です。この形とこの形は同じ。入れ子的な構造になっていまして、この都市のグリッド――九つに分割してこの中に入れていくのが風水です。同じ形が住宅の形になって現れますし、お墓の形になって現れる。前方後円墳というのも、沖縄の墓の形です。しかし沖縄の風水図見ると、正確には天円地方墳という言い方になります。この天円地方墳という形を作っていったのが、東アジアだったわけです。これが風水なのです。

次へ>

▲ PAGE TOP