International Jomon Cultuer Conferrence|縄文土器/土偶/貝塚/勾玉など縄文時代/縄文人の文化を探求する考古学団体 (▼△▼)/

■ 『八ヶ岳南麓・金生遺跡(縄文後・晩期)の意義・1』 新津健


◆平成15年7月 講演録

 本稿は、二〇〇三年七月二六日に国際縄文学会第一六回勉強会にて発表した、山梨県金生遺跡の紹介である。事務局のご努力によりテープおこしされたものがベースになっているが、一〇年が経過した現在、市町村合併が進み当時の地名表記が変わったり、研究が進んだことから内容に変更せざるをえない場合も生じつつある。これら変更事項については、文末に註として掲載したのでご参照いただきたい。

(はじめに)
 こんにちは。ご紹介をいただきました新津です。先ほどご紹介いただきましたように、現在私は山梨県教育委員会におります(註1)。この4月から行政の仕事に戻ってまいりまして、文化財保護に関 する業務についておりますが、それまでは県立考古博物館に五年ほど勤務しておりました。昨年は創 立二〇周年記念ということで、「技と美の誕生」という特別展を開催しました。そこでは火焔形土器 から所謂水煙土器といったものまで展示しまして、山梨を中心に縄文土器の躍動感あふれる中期の土 器を紹介したところです。それ以前は埋蔵文化財センターに勤務しており、県内各地にて発掘調査を 行っておりました。埋蔵文化財センターは実は考古博物館と併設になっておりまして、一階が考古博 物館、二階が埋蔵文化財センターとなっております。このような山梨の組織はある意味じゃ合理的か なと思っております。埋蔵文化財センターの調査にて発掘された出土品を、報告書が刊行されたもの につきまして、考古博物館の所蔵品として展示しているわけであります。埋蔵文化財センターでどん どん掘ってきますから、毎年箱で言えば何百箱も出土品が増えていくことからその保管には苦慮して いるところでもありますが、有る意味では贅沢な悩みを持っている博物館ということになります。

 ところで山梨では現在県立博物館を建築中でございます。これはとりあえず歴史系の博物館ということで、平成一七年秋オープンの予定で進めております。今後、歴史博物館と考古博物館をどういうふうな整合性を持ってやっていくかということで、それぞれのあり方も検討していくべき課題ということになります(註2)。

金生遺跡という名称について

 前置きが長くなってしまいましたが、今日は八ヶ岳南麓金生遺跡の意義ということについてお話させていただきます。
  
 まず、金生(きんせい)遺跡の由来について、まずお話します。ご承知のように遺跡の名前といいますのはその土地の小字名をつけることが多くなっております。工事地区の名前とか土地にある状態、例えば、湖底遺跡とか山上遺跡といった名前も用いられますが、だいたいは小字を用いるようになっています。ですが各地には、いろいろ難しい名前があります。山梨では釈迦堂(しゃかどう)遺跡とか、姥塚(うばづか)遺跡、金ノ尾(かねのお)遺跡などあります。これらは全て小字名なのです。金生遺跡の場合も、同じように小字名から名付けたものなのです。というのも、この遺跡が発見された経緯の詳細はあとでふれますが、発掘調査が実施された昭和五五年の前年、つまり昭和五四年の冬の試掘調査によってここに遺跡があるということが分かった遺跡なのです。田んぼの収穫が終わった冬の時期に、実際に穴を掘って水田下の様子を確かめ、遺跡が見つかりました。このようにして新しく発見された遺跡でして、通常どおり地域の小字名によって金生遺跡という名前が付けられています。ここからがおもしろいのですが、どうしてこの地域が小字として「きんせい」と呼ばれていたのでしょうか。実は金生とは金精(こんせい)に繋がっているのではないかと思っております。「こんせい」とは金精様、すなわち道祖神の本体、あるいは男性のシンボルをかたどった石棒に由来するものです。縄文時代の遺跡からは石棒や丸石がよく出土しますが、金生遺跡でも発掘が進むにつれ、大小の石棒や丸石がたくさん発見されました。このことから、昔この一帯を開墾した際にもやはり石棒が数多く発見され、道祖神にもつながるような「きんせい」という呼び名がこの地に定着したものではないかとひそかに思っているのです。つまり、はからずも「きんせい」という遺跡名は、この遺跡の性格を如実に物語っていることになるのです。

金生遺跡の所在地

 では、金生遺跡は山梨県のどの辺りにあるのでしょうか。所在地を言いますと、山梨県北巨摩郡大泉村谷戸というところにあります(第1図 註3)。山梨の甲府盆地西側には北から南にかけて、北巨 摩、中巨摩、南巨摩の三郡がありますけど、一番北側のもう長野県との県境に近い一帯が北巨摩郡です(註4)。この北巨摩郡のなかでも八ヶ岳南麓の正面に細長く延びている村が大泉であります。そこ から二〇分も走ればもう長野県原村とか富士見町に入ってしまいます。この八ヶ岳南麓の標高が七六 〇mほどの緩やかな尾根上に金生遺跡が立地しています。非常に展望が素晴らしいところです。レジュメの図2(遺跡遠景)のように南の方をみると富士山がくっきりと見えます。西には南アルプスの甲斐駒ヶ岳や地蔵ヶ岳、北には八ヶ岳(図3~5)がすばらしい。そして東には奥秩父山塊の金峰山といったように、四方に特徴的な山を望むことができる立地なのです。

 ここで図3から図5の三枚の写真を見てください。背後に八ヶ岳を背負った金生遺跡の様子がわかると思うのですが、2が発掘前、3が発掘中、4が整備後という三段階の写真なのです。あたかも使用前、使用中、使用後といった状況ですが八ヶ岳連山と遺跡の立地がよくわかるものです。


(図1) 金生遺跡の位置
ファイル 76-1.jpg

(図2) 遺跡遠景(南方を見る)
ファイル 76-2.jpg

(図3) 発掘前の遺跡(北方を見る)
ファイル 76-3.jpg

(図4) 発掘中の遺跡
ファイル 76-4.jpg

(図5) 整備された遺跡(史跡金生遺跡)
ファイル 76-5.jpg

■註

1 筆者はその後山梨県埋蔵文化財センター所長を最後に定年退職
2 現在山梨県立博物館は平成一七年一一月に開館し、山梨の歴史研究や保管、
  展示の柱となって活用されている
3 平成一六年及び一八年に北巨摩郡下の白州町、武川村、小淵沢町、長坂町、
  大泉村、高根町、須玉町、明野村の八町村が合併し北杜市が誕生した。大
  泉村は北杜市大泉町となった。
4 合併によりすべて市となったため、北巨摩郡の名称は消滅。大部分は北杜
  市に属す
5 平成一七年には整備が完了し現在公開されている
6 現在この原稿を整理しているのが二〇一三年であることから、すでに三三
  年程前のこととなる

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