今は埋没してしまっているんですけど、八丈島の三根のあるところにアラ神が祀られていた。近藤富蔵の『八丈実記』に出てきます。近藤富蔵のお父さんは近藤重蔵で択捉島に大日本恵土呂府という標柱をぶち込んだ人です。近藤富蔵の方は、父親コンプレックスで、お父さんにいいところを見せようと思って、幕末に隣の家との土地争いのときに逆上して隣の家の百姓を4人も殺してしまったということで、八丈島に流されるわけです。その人が八丈で『八丈実記』という伊豆諸島小笠原含めた大百科事典みたいなものを書き上げるんですが、その中にアラブ社というのが紹介されています。荒神を祀っている。冗談みたくなりますが、「アラーの神を祀ったアラブ社がある」そう言うとみんなびっくりしますが、このアラもこのアラなんです。実際は、そういうアラ神のアラなわけです。
またちょっと戻りますが、縄文語で神のことをカピという。折口信夫が古代研究の中で、蚕のことを書いているわけです。お蚕さんの蚕は、折口以前は蚕の語源は「飼う子」だった。「お蚕さん」というくらい大事にしていますけれど、硬い殻に被った物をどうも古代はカヒ(カイ)と言っていた、いうことを折口がいろんな言葉を探してきて論証するわけです。玉子もカヒだ、というふうにいわれている。折口から見れば蚕というのはやっぱり一種の神だったというわけです。蚕も虫ですが、最初は卵でそのあと這う虫になってその後蝶になる。蝶というのはよく「蝶も鳥も飛ぶものはみんなチョウだ」と、そういうふうに言われているが、実はそれを折口が言っている。「飼う子」説というのは間違いだと言われていましたが、そういう蚕も一種ヘビとは違いますが、脱皮するものとして後に蚕は絹になるわけです。絹を取った後の蛹の中の虫はどうしていたと思います?昔の人は、あれを食糧として食べていました。無駄がありません。
私は『古神道とエコロジー』という本の中で、江戸時代、八丈島に流された梅辻規清という神道家のことを書いていますが、その人が「天明の大飢饉の元凶は蚕である」ということを言っています。なぜそういうことを言うのかというと、江戸時、町民は絹を着てはいけないということで、武士でないと絹のちゃんとしたものは着てはダメだと。ただし屑繭というか、虫が抜けきったあとの、蛾が出てしまったものを糸にしたものは別で、これを紬といいますが、この糸は一定になっていません。本当は、繭の段階で殺して糸を取るわけですけど、屑繭になったやつを製品にしているという形で、本当は紬ではないのに紬と称しているのもあるわけです。梅辻が言うには、江戸時代はどの藩も財政難になってきているから、手っ取り早く現金収入になるのがいいと思い、田畑を桑畑に替えたりして絹の増産を図るわけです。そのため逆に農地が少なくなってくる。そこにイノシシや小動物が畑に出てくる。本来、山だったところを崩して桑畑にしていくものだから、生態系が狂って洪水が起きやすくなる。かれは「鉄砲水」という言葉をすでに使っていますが、その鉄砲水が起きやすくなる。そういうことで蚕が元凶であると言うのはちょっとシンボリック的に使っているわけですけど、そういうこともあるわけです。本来の形でいくと繭の状態で殺せば虫は食べられるわけですし、蛾となって出てしまえば食べられないということになるわけですが、蚕の中の幼虫はそういう形で食用になっていたわけです。韓国あたりでは今でもやっています。このように虫を食べる文化というのはかなりありました。先ほどの藤森栄一は虫を食べる文化のことは言っていませんが、彼が住んでいた信州というのは、まさに虫食い文化の地域です。ですから、当然縄文人もそういう虫を食べてただろうと思います。今日はみなさんにも生で食べてもらおうと思って、ムカゴを持ってくるはずでしたが、ちょっと家に置き忘れました。すいません。ムカゴというのは山のイモの葉にくっつく丸い虫です。縄文だ、縄文だという人でもそれを「やだ」と言って食べられない人が結構いるので、そういうのは偽縄文人だと僕は言っていますが、そういう人は多いです。
ここで『常陸風土記』のところに入りますけども、『常陸風土記』にはヘビの神が出てくるわけです。『常陸国風土記』の行方なめかたの郡に夜刀神が出てきます。
ヤトというのは東日本には多い地名なんです。谷戸、谷津、谷地という地名が結構点在してますよね。谷津遊園というところに谷津というのがありますし、関東地方には谷津、谷戸が結構残っています。大田区の大森の東邦医大の近くにもありますし、神奈川県川崎市にはとても多い。そういう丘陵の谷あいの水が湧き出す地域を谷戸というわけです。その夜刀神が出てくるわけです。この夜刀神も木の上にいます。それで『常陸国風土記』で新田開発に抵抗した神とかいて「神(あや)しき蛇」というふうに書かれていますが、そういう蛇神としての夜刀神として出てきます。それも木の上にいて様子を見てて脅かされて退散したという形で出てくるんですが、そういう蛇神があります。
それから新治(にいはり)郡のところに「駅家(うまや)あり。名を大神(おおかみ)といふ。然しかいふゆゑは、大蛇(おほかみ)多くあり」つまり神=ヘビということですね。ミは祗であるということ。ヘビのミは祗でもあるということが言えると思うんですが、『常陸国風土記』ではそういうふうに言われています。この『常陸国風土記』が書かれていた時代の、常陸の国を中心に話されていた言語というのがあるわけです。これを上代東国方言とか、万葉集東歌方言というふうに言われているわけです。これは文献的にいうと、わずか痕跡として『常陸国風土記』にあるのと、『万葉集』の東歌方言にしかない方言です。ところが現在も使われているところがある。これが八丈島と青ヶ島です。少し前までは昭和45年までは八丈小島でもしゃべられていた八丈方言という言葉があるわけですが、これが上代東北方言ないし、万葉集東歌方言とほとんどイコールです。ただし現代語ですから、いろんな要素がもちろん混ざってきているんですけれど、文法的には、語彙としても、古い上代の東北方言が残っている唯一の地域であるというふうに言われているんです。先ほども言いましたように、どういうふうな言語的特徴があるかというと、連体形が5段活用になる。あいうえおの5段活用に。普通だと「死ぬわけ」とか「読む本」「降る雨」というと「死のわけ」「読も本」「ふらう雨」というふうになるわけです。だから「芋を食べる」ことは「芋かもわ」になるし、「朝けかもわ」、夜が近づいて「ようけかもごーん」というと、大阪のヨウケかと思って、たくさんに思っちゃう人もいるかもしれませんが、「夕御飯を一緒に食べませんか」です。そういう形の方言が残っているわけです。八丈方言に関しては折口信夫が最晩年に八丈の信仰と言語に非常に注目してこれから八丈島の信仰と八丈方言について研究して行きたいと言ったとたん死にました。結局出来なかった。それから服部四郎という言語学者も晩年に八丈方言の中の非日本語的特徴という、たぶん彼自身はオーストロネシア語的特徴を八丈方言にたぶん直感的に掴んだと思うんです。そこでそのことをもっと今後は勉強していきたい、研究して行きたいというふうに思ってたんですが、そこでやっぱり亡くなってしまったということで、八丈方言について本格的に研究されているのは千葉大学教授の金田章宏さんぐらいです。ほとんどやられてません。