International Jomon Cultuer Conferrence|縄文土器/土偶/貝塚/勾玉など縄文時代/縄文人の文化を探求する考古学団体 (▼△▼)/

■ 『土偶について vol.1』土肥 孝


 函館市著保内野という場所から土偶が出土しました(図1)。その話を含め文化的に土偶とはどういうものとして位置付けられるのか、詳しくお話していきたいと思います。その前にひとつ、土偶は縄文時代にしか作られなかった土製品であること、縄文時代を一番代表する生活用具以外の精神遺物であるということです。

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 私は、縄文時代を狩猟採集生活を基本にした定住社会だったというふうに捉え、基本的に農耕は存在しないと考えています。まず、縄文時代の一番の生活道具は土器です。縄文式土器といわれている土器の基本形は、深鉢の土器です。この深鉢型土器は煮沸だけに使用していました。ではなぜ煮沸だけに使う土器が縄文時代の一番の生活道具になったのでしょう。これは極めて簡単なことです。縄文時代では、食べ物には全て水を使い、その水を煮立てて食物を調理していたからです。この深鉢型土器は、縄文時代を一貫して使用された形であり、調理用具として使われていました。
 まず、このような文化を研究するときは、縄文時代をいくつかに分けることが必要となります。現在は6時期に分けて考えていますが、基準は深鉢型土器の文様を区分することです。文様の変遷の中で、新たに皿や鉢、甕、あるいは注口土器などが出てきますが、その場合、その時期だけ皿や鉢壷を使ったり、甕を使ったりというようなことはしません。深鉢型土器の文様が縄文時代の中でどう移り変わっていくのか、それが考古学の基本的な区分の仕方の根幹です。なぜ深鉢型土器が縄文時代で基本になるかというと、水を介在して食物を調理するというひとつの生活のベースが、縄文社会にあったからです。お米に水を加えて炊くことは、現在も行われていることです。日本にお米が入ってきたのは弥生時代ですが、強飯(こわいい/もち米)は使用せず、姫飯(ひめいい)という柔らかい飯を使用していました。これは水を使った前の時代からの食生活に起因するものだろうと考えられます。それが現在まで、ご飯を炊くという形で縄文時代からの食生活が今もなお伝わっているわけです。
 今度は地球規模で見てみましょう。日本列島は中緯度高圧帯の緯度が中くらいのところです。そこの所にこそ四季があり、その流れの中で暮らしが成り立っています。四季のある場所で一番大事なことは水の確保です。縄文時代と変わらないという視点で見ると、日本列島は、列島の中央部に背骨のように山が長く通っていて、降った雨が海に流れるまでの流路が短いということです。高い所から低い所へ流れる水の流路が短いということは、降った雨がそのまま水として活用できるという地理的な優位性をもっているわけです。縄文式土器は日本で自生したのではなく、大陸から来たものだと思います。この土器が入ってきたとき一番に適応したのは、環境の特性を活かし、水を利用して食物を作ること、熱を加え食料を調理することです。動物の骨や肉や植物、魚、全ての物をその中に放り込み、基本的に汁もののような液体を主とした食生活であっただろうと考えられます。
 また、定住するということは、ひとつのエリアを確保し、集落を維持することが可能になります。そのひとつのシステムとして農耕があります。しかし縄文時代に農耕はなかったのです。なぜならば、農耕に代わるだけの狩猟採集社会があったからです。縄文時代以前も食料と言いながら、動物を追いかけまわしている世界でした。そしてそこに村というものができ、徐々に土器ができることにより定住化が始まりました。私の言う定住社会とは、一人の人間が生まれてから死ぬまでをそこが担保する社会のことです。例えば1年、2年そこに住んでいるというのは、定住社会に含まれません。人間が生まれてから死ぬまでの儀礼、あるいはそれに付属する施設の遺構的研究からいっても、縄文前期から中期以降に定住社会になっただろうと思います。定住形態が狩猟社会の中でできるということは、世界史上においても非常に珍しいことだと思います。「そんなのは赤道直下にも、アフリカにも、南米にもあるじゃないか」という方もいるかもしれません。ただ、基本的に四季の中緯度高圧帯の中での人間集団のひとつのあり方として、縄文社会というのは極めて特殊だと思います。よく民俗誌で赤道直下の人々の狩猟形態を縄文に映して考えようとしますが、それは基本的に考えるベースが違う。要するに四季のあるところ、あるいは水を確保できるという優位性の中でのひとつの社会の見方と、季節のないあるいは水の有利、不利が左右されるような地域との比較というのは単純にするものではないと考えています。縄文社会というのは、世界史上でも珍しい狩猟採集生活を基本にした定住形態であり、その中に土偶というものが出来てきたのだろうと思います。したがって縄文時代が終わった時、米を作る社会になり、食糧獲得が計画的にできるようになって、人を象った土偶というものは消えてしまいました。そういった意味では、社会史学的に狩猟よりも農耕の方が進んだ社会だと言われていますが、そうであるかは少し疑問が残るところです。
 さて、この土偶は、人を象ったものと考えられていて、縄文時代の精神的な土製品として表象できるものです。皆さんもご存じのように土偶は、99%女性がモデルといってもまず間違いなく、男性はほとんど見つかっていません。例えば、考古学で縄文時代における土偶の初期を見ていく場合、その前の時代の人が描いたものは何かということを考えていきます。まず人物を描いたものとして一番古いといわれているものは、線刻礫というものです。これは愛媛県の上黒岩岩陰という場所で発掘し、石に絵が描いてあるということで見つかったもので、女性の髪の毛や乳房が描いてあります。そういうものが全部で10個くらい出ていて、縄文の一番古い段階の隆起線文として位置付けられています。それから土偶として関東地方で一番古いのは、千葉県木の根、あるいは茨城県花輪台のものといわれています。逆三角形のものや、文様の描かれたもの、この写真はバイオリン型の土偶といいます。これらの土偶は、粘土をこねて作り上げて、乳房を強調する、いわゆる女性を表しています。基本的には非常に平板な三角形あるいはシンプルなものの特徴を出すということで乳房をつける。玩具というか線刻礫の方もやはり長い髪の毛と乳房を表している。では、最古の土偶と線刻礫は繋がるのだろうかということになると、考古学的に考えると、まず素材が違います。そしてもうひとつ、これは千葉の歴史博物館の阿部先生が研究されて書かれていますが、線刻礫というのは書いたり消したりするのが特徴であるということです。女性の形を描いたり消したりするということは、反復性があるということです。ところがもうひとつの土偶は、粘土でこねた物を焼き、作り上げたら形を変えることのできない一回性のものです。ですから線刻礫と土偶の基本的な違いは何かと言うと、反復を繰り返しながら描いていくか、焼いて一回で作り終わるものであるかということです。この2つがものの見事に縄文時代の始まりの段階で石から土に変わります。そのときに土器を作る、深鉢形土器を作るという技術を獲得するわけです。土器というのは焼けば一回性のもの、壊れるまでそのままの形を保つわけですが、その縄文土器の器面に描くことで反復性がなくなるということです。文様を描いても焼いてしまったら、形は固定してしまいます。したがって描くということに対する反復性は土器の製作と共になくなってしまう。縄文土器に、絵画あるいは絵というものは、ほとんどないと言ってもいいくらいです。それは簡単に言えば、描く素材が一回性のものに変わってしまうということが、ひとつの素材としての文様、描くことに対しての意識を固定してしまうのだろうと思います。一回性であるがゆえに目まぐるしく模様がころころ変わってしまった、そういうことが言えると思います。
 反復性を持つ線刻礫と、一回性である土偶は、人を描くことにおいては同じですが、素材を変えることにおいては全く性格が変わります。そういった意味で見ていくと、縄文土器はいうまでもなく、一度焼いた土器の一回限りのもの。数百万個という縄文土器がありますが、2つとして同じ文様のものはこの世の中にないということにつながってくると考えています。そういう中で最古の土偶というのは、千葉県の木の根遺跡のもの(写真1)で、平板型です。要するに板のようなものとして、それに人間の女性のシンボルと言うべき乳房とか髪の毛とかそういうものを表現することによって表します。ある意味で顔は描きません。これもいろいろ説はありますが、特に最古の土偶は基本的には顔を描かないのが平板型の一つの特徴です。ただしこれが縄文時代の前期ぐらいになると描くようになり、そこに石をはめたりするようになります。そういうことによって平板型が初期の段階、いわゆる立たないものが立つようになるというような、ひとつの土偶の流れがでてきます。土偶を立たせるということは、板状のものですから平板のものは当然立たないわけです。この立たせようとする時代というのが縄文時代の中期です。ではなぜその時代に立たせようとしたのかを考えていきましょう。土偶を立てるためには、大体6通りのやり方(図2)があります。まず、上の方が上半部で、板状に作る。下の方に6通り描きました。1番目は平板上の上半身に、足を太くして立たせるようにする。いわゆるこれは出尻型という形です。それから、2番目は縄文のビーナスといわれている土偶(写真2)です。立たせるためにどうするかというと、足をL型に折って上半身を立たせる。これは長野県の茅野という遺跡にあります。それから3番目は、脚部を略して、胴部を太くする。これは上黒駒で出土した土偶(写真3)ですが、もしかすると足がついていたかもしれないと言われています。足をつけて復元するとだいたい38㎝。足のところが円盤になっているのではないかという説もあります。ただ、これは下を見ると擦ってありまして、この擦ったのが現代なのか、あるいは縄文時代なのか非常に難しいところです。これを仮に擦ったとすればおそらく上半身だけで立たせようとした土偶であろうと思います。これもある意味立たせる形として、平板状のものを作ったと考えることができると思います。次に4番目には支えをつけている、これは板状の後ろにちょうど、粘土紐をつけて木の棒を差すような、額縁の背中を立てるような形で作るものがあります。東京都北区で出土した縄文時代後期の土偶(写真4)で、ちょうどヤジロベエみたいに、後ろのところで木の棒で立たせる形のものがありました。5番目は板状のものを下を円盤にして、その上に平板状の物を立てる。そういうやり方があります。

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それともうひとつは6番目のように真ん中を空洞化して中空にする。これも立たせる方向として、真ん中をえぐりこむことによって空洞部を作って立たせる。このように6通りに分類できます。そうすると土偶を立たせることは縄文中期から起こることですが、なぜ立たせるのかは、縄文時代の社会を考えていく上で非常に重要なことです。まず基本的には女性がモデルであるということ。それから板状のものを立たせること。例として、きわめて重要な絵画の資料で、長野県の唐渡宮(とうどのみや)という遺跡に、アスファルトで女性の出産風景を描いた土器(写真5)があります。

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それはアスファルトで横に木の棒を渡しておいて、そこのところに両手をついて、立った形で出産している、そういう絵が描かれている土偶が一例あります。それを見るとまさに土偶が立つ段階で、出産の形態は立産の可能性があるということがひとつ言えると思います。平板の場合、どうも見てもまともに置けば立たせることができないわけですから、何を表しているかといえば、横になった状態を表しているのです。仮にその当時の土偶が出産に関するものならば、おそらく平板のものを立たせるということは出産形態の変化を表しているのではないかと考えています。このように何が何でも立たせようとすることが縄文時代の中期には見られ、6タイプの立たせ方が各地域に出てくるわけです。この中で特に重要なのは1番と6番で、脚部を太くし、中身を空洞化した中空にすること。実はこの2つのやり方が一番造形的に土偶の中で優れた形になるのです。この形態で一番初期に出ているのが二つあります。まず、長野県茅野市にある棚畑遺跡から出土した縄文ビーナスといわれる国宝の土偶です。この遺跡できわめて重要な土偶は中を空洞化して作っています。その後につながる著保内野、これも国宝になりましたが、中身が粘土でできている。棚畑遺跡では、中身が空洞になる中空型のものと、そうでないものの2タイプが出現しています。のちの造形の中で最も優れた形というのは、茅野の棚畑遺跡であるということがいえるわけです。そして、もうひとつは、同じ地域で空洞のいわゆる縄文の女神といわれているお面をかぶった真っ黒の土偶(写真6)が出ています。

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距離にして約2㎞しか離れていない遺跡から出てくるのですが、これもまた素晴らしい土偶で、同じ長野県茅野のエリアの中で作られている。ある意味では土偶を立たせようとするひとつの溯源の地というのは、その地域ではないかというふうに考えています。もうひとつ、中空のものというのは実は容器形と言われています。土器の形をした中空のものからくるのではないかという説がありますが、容器形と言われている土偶は全然違うと思います。基本的に容器形土偶ではなくて、土偶形容器と見た方がいいだろうと思います。人の形を象った容器であって、土偶とは全く別のものです。土偶というのはあくまでも人の形を象るということを基本に作るもので、それを別の用具として使うという機能分化はしていないということです。ところが、機能分化が明らかに起こったのは弥生時代です。最新の土偶として、神奈川県の中屋敷(写真7)という所と長野県の渕の上(写真8)という所の土偶を出しています。

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これを土偶と言っていいのかどうかは難しいのですが、実は中屋敷という土偶は考古学的に確認されていましてこの中から焼けた骨が出ています。すなわち蔵骨器です。ですから縄文晩期、あるいは弥生時代の最初頭と言われているこの中屋敷の段階には、人の遺体を火で焼いてその骨をこの壺の中に入れる、そういうことをやっています。これも土偶の延長上として考えるならば、完全にこの段階では死者の骨を入れる容器として変わっていく。ただ、これを土偶と言っていいのか非常に問題がありまして、容器形土偶と同じような、容器ですが人の形を描いているというものがあります。これは土偶の一番最後のものであろうと考えています。さて、この次の段階でどうなるかというと、弥生時代には大きな壺や甕に人の顔をつける人面土器というのを作り出します(写真9)。

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