International Jomon Cultuer Conferrence|縄文土器/土偶/貝塚/勾玉など縄文時代/縄文人の文化を探求する考古学団体 (▼△▼)/

■ 縄文インタビュー 戸村正己 4


戸村 正己(フィールド考古 足あと同人)
インタビュアー:土肥 孝(国際縄文学協会 理事)

創作空間「縄文の丘」を訪ねる vol.4

土肥:縄文人はどこからか情報を取っています。文字が無い縄文時代は、モチーフを頭に入れて持ち帰るのか、または共通の認識があったのか、どうであったのか色々考えられますね。土器の制作時間ですが、大きい土器でも一日で作ることは出来るのでしょうか。

戸村:器の大きさや文様の程度にもよりますが、例えば50~60㎝程度の円筒形の土器であれば、粘土の積み上げはそれ程困難ではなく、器の素形はその日のうちに出来上がると思います。そして、その後タイミングを図って施文や器面の調整などを行ない、基本的に約3日間に亘る作業の流れが必要となります。当然、それ以上の大型のものや皿形に広がる器形、複雑な文様のものなどは一気には作れず、更に時間がかかります。

土肥:当時の製作場所については、どのようにお考えですか。

戸村:彼らは、竪穴という、半ば暗闇の中での製作は行ってないと思います。諸条件を考慮すると、例えば、屋外の片屋根程度の建物や掘立小屋のような、光が取り入れられる製作場所が考えられます。しかし、制作址的な遺構の確認がされていないという現実があり、そういう痕跡を今後、明確にしていく調査が必要だと思います。

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土肥:私が発掘調査してきた中で、焼いた跡だろうという場所が今までに一度だけありました。戸村さんが焼いている場所より少し大きめで、おそらく、五人~十人位集まって、まとめて焼いていたのではないかと思います。ただ、それが他の場所から遺跡として出てこないから、このことは何とも言えないですが。

戸村:そうですか。私のこれまでの経験を踏まえれば、土器焼成場所の条件としては、あまり風の通りがない場所であればどこでも良いと思います。風があると温度が安定して保たれないので、穏やかな時を選んで焼きます。当時、焼成は、儀式的な心構えで行なっていたのではないかと考えます。ある意味、火の中から道具としての命が生み出される行為である訳ですから…。

土肥:今後、作りたい作品はありますか?

戸村:あります。しかし、情報を入手するのに限界がありまして、個人の立場であるため極めて困難な場合が多いです。遺物の裏側の状況や、細かな装飾などの把握ができないジレンマがあります。前提として、いい加減なものは作ってはいけないと思うからこそ、これまでできるだけの情報を、時間をかけて蓄積し、納得できる状況が整った上で取り組んできました。いずれにせよ、どのような条件下であったとしても、妥協せずにやって行こうと思っております。

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土肥:最後に、長年の土器制作を通して、感じていることを教えてください。

戸村:それは、言ってみれば製作の全てがそうなんですが、私が土器を作ろうとする場合、先ず対象とする土器の図版や写真を手に入れることから始め、その情報から一定程度の理解を図った後、製作に取りかかって行きます。そして、成形についてはプロポーションに狂いが生じないようにスケールで測りつつ、粘土の積み上げを行います。文様についても、図版などを参考に描いていく訳ですが、縄文時代の当時はそうした諸々の製作に関した情報はどうであったのか、ずっと気になっている問題です。

 当時の人たちが製作し残した一群の土器の形や文様表現が、結果的に今日で言う型式という概念で括れる程そっくり・・・・に作ることができたシステムは、一体どうであったのか不思議でたまりません。縄文の興味は尽きません。(終)

戸村 正己

1954年千葉県生まれ。小学時偶然川で縄文土器を採集。数千年も昔の土器が掌の上にあることの不思議さに感動し、魂を揺さぶられる。以後、“縄文“の虜になる。これまでに「土器づくり」に関した多くの講演を行う。博物館依頼の元、数多くの土器の製作復元を行う。近年、自宅の“縄文の丘“にて作品展を開催。

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■ 縄文インタビュー 戸村正己 3


戸村 正己(フィールド考古 足あと同人)
インタビュアー:土肥 孝(国際縄文学協会 理事)

創作空間「縄文の丘」を訪ねる vol.3

土肥:縄文時代の中で、比較的新しい時代の土器と、古い時代の土器ではどちらに魅力を感じますか?

戸村:どちらかといえば、新しい方ですね、後期・晩期が縄文に興味を持つ最初のきっかけでしたので。

土肥:後期・晩期の土器は、特別良い土器ですね。

戸村:製作して感じられたことは、デッサンとも言うべき下描きをし、その後に行なったであろう器面調整やら磨きなどの作業の痕跡を観察すると、中には、これ程までに磨き込むかというくらい、入れ込みが感じられる土器があります。しかし、「何これ?」と言いたくなるような稚拙な土器も、まま見受けられます。そのような土器は、弟子を育てるために作らせた手習いの作品であった可能性が考えらます。

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土肥:なぜ、どうしようもない土器があったのかといえば、子供たちも土器制作を学んでいたからではないでしょうか。教えていたのが、おばあちゃんなのか、お母さんなのかはわかりませんが、「こういうものを作ってごらん」と自分たちの作り方を伝承していった。下手でもいいからとそのまま焼くんです。当時の子供たちが一生懸命、泣きながら作っている姿が見えてくる土器もあります。土器というのは、そのようにして繋がっていくのではないでしょうか。戸村さんも人材育成を考えないといけませんね。

戸村:そうですね。私が今まで体験してきて思うことは、なかなか言葉では伝えにくい感覚的な技術面があります。それは、沈線の引き方1つとってもそうですが、線も一様ではなくて太さや深さの違いがあり、各型式の共通項に則った線が引かれていることから言えることです。

 私の土器製作の基本は、今日の土器製作研究の草分けである新井司郎氏から学びました。先生は「ただ表面的に形を真似るだけなら、それは単なる偽物作りだ。縄目の1つ、線1本について、つぶさに観察した上で土器を作るべきだ」と言われました。

 そのような視点で実際の土器を見てみると、ミリ・・の間隔で細密な沈線が1本1本引かれ、器面を埋めたりしているものがあって驚かされます。現代感覚で言えば、もっと簡略的に描けば良いのにと思いますが、やり遂げています。そして結果的に、それを惜しげもなく使い、煤で真っ黒にしてしまう訳ですから。芸術品ではなく、当り前と言えば当り前のことですが・・・。

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 私が思うには、土器作りも言ってみれば「祈りの行為」であり、ある意味では修行の姿にも似ているのかなと思えます。粘土という素材を自然から頂き、人が形を作り、火の力などを借りて産み出す“人と自然の関係”つまり、人間としてやれるところまで成し遂げたら、あとは精神の中で成就されるのだと。祈りの縄文時代が終わり、弥生時代になると文様が一掃されることからそう思います。

 私は縄文土器製作のあり方を、マラソンの競技に例えて言うのですが、それは、ロードレースで折り返し地点まで行き、今度は競技場に帰ってきます。土器作りで言えば、器の形が出来上がった時点は、まだ折り返しの地点。現代の器というのは、その折り返し地点がイコール到達地点であると思いますが、縄文土器というのは形ができて終りではなく、そこから折り返して文様を描く作業があり、倍の労力をかけて作られています。

土肥:時間をかけることを嫌がらない。縄文人はそういうものに対して、一切、手を抜くことをしていませんよね。

戸村:そのような人の心が伝ってくる学問というのは、無機質ではないからおもしろいです。しかし反面、器形や文様に厳格な共通性が見られ、勝手気ままな造形が行なわれていない社会、世界観に驚きと不思議さを覚えます。

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■ 縄文インタビュー 戸村正己 2


戸村 正己(フィールド考古 足あと同人)
インタビュアー:土肥 孝(国際縄文学協会 理事)

創作空間「縄文の丘」を訪ねる vol.2

土肥:縄文前期に、繊維を入れて作られた土器については、どう考えますか。

戸村:見た目で繊維が入っていると漏れ易い土器の印象が強い訳ですが、例え8~9割方繊維が入っていてもいいわけです。表層に粘土成分の高い部分があれば十分です。表面的にコーティングされた状態と同じ条件を作り出していればいいのです。出土している繊維土器の煮沸の痕跡は明確です。器壁はスカスカな状態ですが、ちゃんと水が漏らないための工夫をしている訳です。

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土肥:当時、繊維が入ったものは“しっかりしている”という様に認識していたのでしょうか。その後の縄文中期以降に、繊維の入った土器が消えてしまったことについては、どう捉えていますか。

戸村:繊維を入れた土器の広がりは狭いエリアではなく、東日本を中心としてほぼ全国的な広がりがあります。繊維の混入技術の現象は、土器の割れを防ぎ大型化を図りつつ、軽量化も意識した土器製作上の技術革新だったのではないかと思います。併せて、“粗製乱造”ではないでしょうが、決して丁寧な作りではないけれども、要点を押えた土器づくりが行われた時期だったと思います。それは、成形を行なう過程での器面調整が、そのまま施文となる貝殻条痕文の土器に代表されるような作りです。繊維の入った土器は、当時もしっかりした感覚のものではなかったと思いますが、それでも生活の道具として機能していた訳です。しかし、中期以降に見られる器形の更なる大型化や文様の表現には、繊維混入の胎土では対応できなくなり自然消滅したのではないでしょうか。

土肥:そうすると、より精密な土器を作るため、文様を表現させるために繊維を無くしている可能性があると。中期の土器も荒いです。後期・晩期になると、はるかに良い土器になりますから。やはり、その差はあると思います。

戸村:中期になると、とても重量のある大型の土器が製作されているわけですが、結局それは村落の形成と関係していると思います。大型土器を持っての移動は難しいので、村自体が大型化し、より人が集まる社会が形成された。それゆえに、あれだけの容積を必要とした土器を作ったのでしょう。つまり、繊維混入のような素材では対応しきれなくなっていったのではないでしょうか。

土肥:ご自分で製作した土器を、土の中に埋めたりしていますが。

戸村:はい。露天で埋めたり放置したりしています。それは、要するに表面を風化させて、土器製作の深度というか、どの程度で製作を止めているのかという度合を確認したいからです。数千年の風化と比べれば雲泥の差ですが…。けれども、少なからずここ十数年とか二十数年近く、雨風に叩かれているわけですから。そうして出土品と比較観察してみると、この程度で良いという成形・器面調整上での一つの目安になります。あちこちで実施されている土器作り活動の中には、器面が驚くほど磨き上げられ、やり過ぎている感を覚える例があります。つまりピカピカの土器なのです。これは出土品とは明らかに違うと。ですから、どの段階で製作を終了しているのかという事も含めた製作状態も、型式で捉えられている大事な要素であると思うんです。成形して、あまり器面調整もしていないものもありますよね。それも一つの型式が内包しているものだと思います。つまり、それらを確かめたいがために風化させています。器面の状態が数十年の風化により、出土品に近い顔つきになっています。どの程度まで踏み込んだ製作によって、この土器は作られているかという尺度のための風化実験です。

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土肥:制作する上で、一番難しいことは何ですか。

戸村:粘土の良し悪しを、彼ら縄文人がどう判断したのかということが、私がずっと気にしている課題です。彼らは、一つの大作を作る場合でも、テストピースのような試し焼きの残滓を殆ど残していません。いきなり大作に取り組むという大胆な事を行なっていたのかどうか。例えば、巨大なビルを建てるのに、その材料の如何を吟味しないで取り掛かっていくというのは有りえないでしょうから。実際問題、どのようにして素材の見極めをしていたのか。私の経験において、大作を手掛けそれが焼成段階で大破した苦い経験があるわけです。その時はものすごくショックでした。同じ状況においては、当時の人も同様であったはずです。そうすると、いかに材料の判断をしたのかという問題は重要です。その証拠になるものはありません。

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■ 縄文インタビュー 戸村正己 1


戸村 正己(フィールド考古 足あと同人)
インタビュアー:土肥 孝(国際縄文学協会 理事)

創作空間「縄文の丘」を訪ねる vol.1


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 土器の製作復元を数多く行っている戸村正己さん。 製作の現場である創作空間『縄文の丘』(千葉県)を訪ね、お話を伺いました。

土肥:縄文に興味を持ち始めたのはいつですか?

戸村:小学校4年生の頃です。近所に高谷川泥炭遺跡があり、その川の堤防で偶然に土器の破片を手にしたのがきっかけです。破片の元々の形はどんなものだろうと興味を持ちました。縄目や引かれた線の感触は、無機質な物という感じがしませんでした。縄文時代は文字がない時代でしたが、文様は文字に匹敵する記録、つまり肉筆の記録という風に思いました。

土肥:戸村さんに初めて私がお会いしたのは、数十年前の遺跡発掘現場でした。

戸村:そうですね。土器製作を新井司郎先生から学び、その後ちょこちょこ作っていたものを、先生がいらっしゃっていた発掘現場にお持ちしたのが土肥先生との最初の出会いでした。お見せしたところ、皆さん本物だとおっしゃる中、土肥先生だけはちょっと待てよと、首を傾げられたので、それは良かったと思います。私の中では、騙そうという意識は全くなく、「見ていただければ有難い」という気持ちでしたから。その後、他人が評価するしないかよりも、ただ忠実に真面目に自分の使命として土器製作をやってきました。ありのままの縄文文化を発信していかなければならないという心が大切であり、変に誇張した方向に持って行くべきではないと思っています。

土肥:いろんな方々に見てもらうことが大事ですね。

戸村:そうです。土器は生活道具の一つですから、ただ単に陳列ケースの中にあるというのではなく、より身近に五感で感じてもうらことが大事かと考えます。

 以前、作品展を開いた時、見学に来られた小学生に、私の作品を実際に持ってもらう機会を設けました。仮に、誤って落とされてしまう危険性もありましたが、私の作品であるからこそ、リスクを度外視して触ってもいいようにしたわけです。そして、子供から「見た目に重いと思っていたものが、意外にも軽いんだ」という感想をいただきました。実際、縄文の後期・晩期の土器は大きいけれども薄いのです。その子が「えっ?」ととても驚いていたのが印象的でした。

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※戸村正己さん(写真:右)、土肥 孝理事(写真:左)

土肥:本物の土器・土偶に触れることの出来る機会があればと思いますが。

戸村:出土品と同等の質量のものを復元して、それを触ったり持ったりするのは良いのですが、ただ出土品の場合は唯一無二のもので劣化が進んでしまう訳ですから、出土品に触れるというのは如何なものでしょうか?

土肥:作品を製作するうえで、一番気を付けていることは何ですか。

戸村:私は、あくまで出土品を忠実に再現する事を心掛けています。そこから逸脱してはいけないと思っています。文様で、これは工具使いではなく直接手描きをしていると見られれば、どんなに緻密であろうと追及していきます。

 以前、土肥先生や小林達雄先生から、作品が今後本物との区別がつかなくなる可能性が出てくるので、「自分のサインを入れておいた方が良いよ」と言われました。「風化してしまうと分からなくなるから」と有難いお言葉をいただきました。まだまだ追及し足らない課題は山ほどありますが、少なからず、「出土品により近づきたい」という思いで製作しています。子供時代に土器を拾い感じた、割れた土器の元々の姿はどういうものだったのだろうという好奇心は、ずっと心の中で長年持ち続けた夢の追及だったわけです。これから機会を得て、私なりに掴んだ成果を公表することが、使命だと思っています。

土肥:縄文の土器を製作するうえで、本来の形を変えてしまう人もいます。芸術としてはいいですが、それは考古ではないと思いますが、いかがでしょう。

戸村:この部分は残っているからゆえに、ここはこうであろうという客観的事実に基づいて製作すべきです。作り手の身勝手な解釈、発想で、奇抜な展開になるのは間違いだと考えます。言葉は悪いですが、それでは粘土遊びの延長でしかありません。私の製作の姿勢としては、粘土による実測図作成のつもりで、立体的な再現を心掛けています。そのような物が目の前にあれば、当時の様子を想定し、それぞれの感性で捉えて、実際に持って使ってみることができる。さきほど土肥先生が、ここを持つの?とおっしゃっていましたが、それはもうご自由で良いと思います。定義はありません。土肥先生の持たれた形を見て、そういう持ち方もあるのかと思いましたから。それも有りだと思います。大事そうに持たれる方もいるし、片手で持つ方もいます。

実際の出土品を使うのは無理な訳ですが、同じ質量のものを作って使うことが出来れば、色んな持ち方をしたり、色々使い方を想定したり、発想のバリエーションが広がるわけですよね。それを提供できる役割を果たせればと思っています。

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土肥:土器の土は、何を使用していますか?

戸村:私の場合、いわゆる常総粘土と言われる火山灰土の自然生成の粘土を使っています。地面の下にある粘土を採取しているので、どこかで買い寄せたものを使うということはありません。採取した粘土に混合物をブレンドして使っています。

土肥:石なども混ぜますか?

戸村:基本は砂で十分です。混合物の混ぜ方など、最近色々なことがわかってきました。いかに割れないものを作るかが少しずつ見えてきました。粘土だけでは収縮率が高く割れてしまうので、混合物を混ぜ込まなければなりません。ただし混ぜ過ぎると、粘土質が損なわれ、漏れ易くなります。割れないために混ぜる事が、反面漏れを起こさせる原因になる訳だから、正に“痛し痒し”の関係です。結局どちらの利点を優先させるのかということから言えば、粘土の性質を見極めた上での混ぜ方の工夫が大事だと思います。

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■ 縄文対談  津川雅彦氏(俳優) × 小林達雄先生(考古学者) 3


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津川)
岡潔さんという日本が誇る大数学者が、日本人はもう一度「連歌」をやりはじめたら、200年もすれば、再びまともな国民になれるだろうとおしゃっています。言霊をもって想像力を延ばせと云うことだと思います。さて、今の小林先生のお話によると、農耕は田畑で下さえみていれば仕事はできたが、縄文時代、食料を得る為には密林に入り、足元が悪い中でも先を見て歩かなくてはならない困難に遭遇したわけで、すべてが今よりも、もっと過酷だった。その苦労に挑戦せざるを得なかった。東北の人々も歴史始まって以来、冬になると全てが雪に閉ざされ、身動きならない辛い日々に耐え、更に最近は過疎化にも耐えて過ごしてきています。だからこそあの心の美しさを保てたんじゃないでしょうか。この年齢になってはっきりしたことは、苦労した人間じゃないと信頼がおけないということです。苦労した人だけが心を磨き、他の人の苦労がわかり、人格が成長するのです。僕は芸能一家に生まれ、苦労もなく役者になって、いい加減な男として生きてきました。その中で人間として少々まともになったと感じたのは娘が誘拐された時からです。あんな辛さは人には味あわせたくないけど、その時の苦労が、父と娘の関係を充実させ、人間同志が思いやることの大切さとして自分の中で芽生え育ち、人の心を真摯に見つめることもできるようになりました。苦労は大事です。東北の人々もそうですが縄文人も豊かな苦労の中で、情緒が成長し言霊が成長していったのだろうと思います。大和言葉っていうのも是非勉強してみたいことの1つですね。

小林)
言霊というのは日本的なものですからね。言葉にもスピリッツが宿っているのはすごいことです。世界には約6500の言語があるといわれています。その中で日本語が個性的でユニークなのは、たった115の音節、115の音しかないといわれています。それしかない中で、橋、端、箸をはしで説明する。書く、描く、掻く、欠くもかくで一緒です。これは実は人間同士だけでコミュニケーションをとってきたのではなく、1万年以上自然と共存共生してきたことのひとつの表れかと思います。それが「春の小川がさらさら流れる」などの表現につながっているのです。

実は自然界の音も115の音でキャッチする。草木すべてものがものを言います。だから風がきたというのは物理的な気象学的な風の現象ではなく、風というスピリット、生命体が動いていくと考えます。その時「さわさわ、ざわざわ」と音を立てるとちゃんととらえているのです。これは日本人だけです。たくさんの音をもっている人たち、たとえば中国では440くらいで4倍、英語は2~3万の音がある。音を組み合わせて記号化してコミュニケーションをしていく。それが人間同士で相手を言い負かすときなど貴重ではあります。我々は115音で少ないのでダジャレなんかでごまかしたりします。それは日本語の特徴です。それも1万年もの縄文が大きくかかわっていると思います。

津川)
今回は世界で初めて土器、漆器、釣り針、銛、漆喰も作り、世界に先駆けて天才的な才能を発揮した縄文人の叡智の話でした。当然のことですが優れた頭脳があるからこそ、あれだけの上質な心をも磨けた訳ですね。優れた頭脳というのは決して暗記力や知識の豊かさではありません。想像力のことです。日本人は1万5千年も前から、あらゆる面で世界をリードする想像力をもった人種だったのだと確信が持てるようになりました。3・11の被災者の「我慢」「忍耐」「礼節」と云う美しい心は縄文のDNAが花咲いたのだとも発見できました。そういった資質は日本人だからこそ1万5千年後の今日まで育ててこられたのでしょう。日本人が培ってきた大自然とその生命を大切にし、美を尊敬し、人の心を思いやり、共存共栄していく精神を、東北の人達が多くの犠牲と共に、その模範として我々に見せてくれました。この感動をこれからの若い人達には時間と共に薄れさせないで大事にしていってもらいたい。それこそが世界の平和にリーダーシップをとれる日本人の能力育成につながるのですから。平和というものを、日本人ほど考え実行し実績を残してきた人種は世界にいないのです。しかし残念ながら縄文土器が世界最古だと子供たちの教科書にちゃんと載るようになったのはつい6、7年前のことです。情けない話ですが、それも日教組系ではない教科書に限られています。それでもやっと小学生の教科書に載った訳ですから、もっともっといきわたらせてやることが今後の大人達の責務でしょう。僕は一昨年の暮れから始めたばかりのまだ縄文1年生ですから、縄文人というのはすごい人たちだったということをこれからも、もっともっと勉強していきたいと思います。次回皆さんの前に現れるときには小林先生にも感心してもらえるくらいになりたいと思います。

小林)
9万年前に南アフリカに現代のわれわれにつながるホモサピエンスが登場するわけですが、それが日本列島まで来て、現生人類のホモサピエンスサピエンスですが、能力は一緒なのですが、いろいろな条件に巡りあうとか、反応をすることで個性がうまれたり、創造性がうまれたりします。日本列島に生まれた人間の創造性がもともと優れていたわけではなく、たとえばそれを育んでくれた日本列島の自然環境や位置関係、海に囲まれていたことにより豊富な海の資源など、それらをうまく利用して、縄文文化が育った。そういうものに触発されて縄文文化を育てた。

ほかの地域にいる人たちも能力は同じですが、技術と効率に走ると、いいところが隠れてしまうのだと思います。リービ英雄という中国語、英語や日本語で小説を書く小説家がいますが、彼が日本語でしか書けない小説があるというのですね。最近の小説の女流や若い男性の書くストーリーは日本語でなくとも書くことができると思います。もちろんそれぞれ作家たちは頭がいいし、おもしろい思い付きをして小説にしているですが、そうした能力には感心するのですが、なかなか感動しないのです。おもしろくないわけではない。それがリービ英雄さんが意識的に言っていないかもしれないし、違うかもしれないけど、私はそういう風に受け止めて、日本語でしか書けない小説があるなんて、とても誇らしく思いました。我々の立場からもそれもこれも縄文に芽があるのではないだろうか。

津川)
先生のお話を伺ってみて強く思いました。日本人の環境ですね。四季があり、山があり、川があり、海に囲まれ、大自然に恵まれた環境にいる。それが縄文人の優れた資質を作り出したのだと考えると、日本という国土と自然をもっともっと大事にしていきたいと思います。ありがとうございました。(終)

[平成24年7月24日 於:NPO法人国際縄文学協会事務所]

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