■ 縄文対談 津川雅彦氏(俳優) × 小林達雄先生(考古学者) 2
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小林)
平和という問題は、時代や国を超えて考えさせられることですし、平和について考える時に今日でも世界中には色々な問題があるわけで非常に身につまされる思いがします。
今の津川さんのお話は少し買いかぶりすぎていて、縄文人も人の子、我々と同じです。私だって外からみれば女房と仲良く見えますが、本当のところは皆さんにはお話していません。いろいろ葛藤がある。ある程度の人に迷惑をかけて、家庭の問題を外にむけたり、家庭の争いごとを解消するために外に働きかけたりはやらないといけないですね。
佐藤卓さんが企画した国立科学博物館で開催された「縄文人展 芸術と科学の融合」(2012年7月1日まで)に呼ばれましてその時に書きました。今の話をふまえたうえで、人間は争う動物であるということを強調したのです。つねに争っているのですが、争うから平和じゃないというわけではない。けれども、争い方やその影響、どの程度まできたら身を律するかを考えていたのです。話は少し変わりますが、昔からいじめとういうものはあったのです。私もとても小柄だったので、3人くらいの仲間を作って団結すればあまり怖いものなしでした。だから人に意地悪をしたこともあります。ですが、はたから見ると許されていました。上級生から呼び出され怖い思いなどもしました。いじめは普通にあることだと考えていました。しかし最近のいじめは律するというたがが外れて、それを監視する人の目もおかしくなって右往左往している感じです。実は縄文人も戦っています。その原因がばかばかしいのです。だからこそ許される、だからいいのです。真剣に戦っていたらまずいですが、そこまではいかなかったのです。
どういう経路で戦争になるのか?太平洋を挟んだ対岸にあるシアトルやバンクーバー、そしてその北にかけてはトーテムポールを立てた人たち。この人たちも縄文人と同じ自然経済でサケをたくさんとって保存食にするなど、農耕がありません。でも戦争をよくしていました。戦争は冬にするのです。どの時代もはねっかえり者がいて、若い奴はじっとしていられない。血が騒ぐのが抑えきれなくなって、そういう奴らはすぐ隣を攻撃するのではなく遠くまで行く。卑怯にも夜討ち朝駆けです。相手も襲撃を受けたら反撃できない。これは残酷です。農耕がなくてもすごく残酷なことをします。男はみんな殺してしまいます。年端もいかない子供や女は連れ帰って奴隷にするのです。縄文社会にも階層制度があって、奴隷がいたのではないかと僕は考えています。一般的には、争うのは、弥生時代から始まると考えがちですが、人間性という点からすれば縄文時代から凶暴性はあったと思います。
北アメリカ北西海岸インディアンは奴隷を確保していた。身分が高い人は沢山の奴隷を抱えていた。ヨーロッパからアメリカ新大陸に渡り最初に高邁な精神で先住民族に接していると思われていた宣教師たちも、先住民から奴隷をもらっていた。平和をうたうはずの人達もたくさん奴隷を抱えていた。だからこそ平和だったのです。
縄文は平和だったのですが、きれい事だけではない。そういう問題を抱えながらも平和を維持したというのは、もしかしたら縄文人の評価が厳しくなるかもしれないですが、だからこそより評価が高くなるのではないかと思います。
どうしても人間同士が四六時中顔を合わせているとストレスがたまります。これは心理理学的に避けられないことです。それには500人規模を超えるとそのグループは自滅崩壊しがちになると文化人類学者の大方の見方があります。大勢いると時に、うそをついたりして上手く立ち振る舞いをしていかなければいけないので、なかなか難しい。そう意味で、縄文人のグループは500人を超えなかった、おそらく約100~150人くらいだったのではないか。実はそのくらいの人数が仲良くなるにはいい規模です。弥生時代には、500人以上のグループができ、邪馬台国のような形ができ始めると、地域を超えてもっと大きなグループを形成しなくてはいけないから、時には武力が生まれるかもしれない。地域を超えて争い事が起きたかもしれない。縄文も小競り合いはあったと思いますが、社会集団として平穏に機能させるためにおこなったところで、そのおかげでノイローゼやストレスを抑えることができ、うまくやっていけたのではないか。
もうひとつ大事なのは、縄文人は仲間同士の付き合い以外に、1日24時間、昼夜、黄昏(たそがれ)時と彼は誰(かはたれ)時など、大まかな時間を認識していて、個人の生理学的な単位だけでも昼夜があるわけで、その中で壁に囲まれた竪穴住居で家族と一緒に時間を過ごす。イエを出るとムラの仲間とつきあう。ムラというのは生活の根拠地で、そこからハラにでて、食料と道具つくりに必要な材料を手に入れてムラに戻る。大事なのはハラという存在です。ムラはそれまでの自然界歴史の中でまったく新しい空間。人間が人間のために使いやすいように作り出した空間。ムラの中の景観は自然とは全く対照的な人間の利己的な空間になるわけです。それに対して、ムラの外にあるハラというのは、自然的秩序がずっと残っていて、それを崩さずに自然の恵みをいただく。それが縄文人のやり方で、縄文時代が1万年以上続いた要の一つだと考えています。いろいろな試行錯誤で達して結論かもしれませんが、人間の能力には一定の判断力があり、自然を利用している自分たちにとって自然は乱暴狼藉で勝手気ままに使っていいものだとは思っておらず、大切に利用するという哲学思想が普通にある。アメリカインディアンやオーストラリアの先住民族もそうです。これが大事なことで、仲間同士との付き合いとは別にハラに出て生かさせていただく作業を重ねていくうちに、自然との共存共生としての対話があり、やりとりにつながる。だから、人の社会だけで付き合いがあり、対立が起こると、血を流すような大きな対立になりかねない。ですが、相手が自然ですから、一方で津川さんが指摘されたように自然に対して草木みなものをいうという見方があります。八百万の神がいて、草も木も川の流れもすべて魂をもち、生命体であり、精霊が宿っている。それは自分たちにも宿っているという考え方。その考え方、宇宙観みたいなものを一生懸命整理していくわけですが、日本列島の縄文人だけではなく、自然民族はそうやって自然と共存してきたのだと思います。ところが、中国やヨーロッパ大陸側の自然との付き合い方は、ムラの外に自然的の秩序を維持してその恵みを控えめに利用させていただくという感覚は低く、むしろそういうハラを許さず、その存在を否定する。そして代わりにノラという存在をつくっていく。つまりムラの周囲にハラがはびこっていると、それを征服し開墾していかなくてはいけない。弥生時代以降、日本列島でもその道を進む。縄文が1万年以上自然との共生を続けている間に、大陸側の農耕を基盤にしてムラをつくっている人たちは自然を破壊し征服して自分たちの人間意識を高めていった。
子供の頃の日本の教科書もそうだったかと思いますが、人間は自然を征服してこうやって成果をあげてきたがゆえに自然の世界のトップにいるんだということに喜んだものです。しかし、それはヨーロッパ的なムラの世界観から生まれたものだと思います。それは自然をただ征服するのではなく、効率よく征服する。そうすると技術が必要です。たとえば開墾してハラをノラにしていくときに灌漑設備をつくるために土木工事の技術がなくてはならない。それから、限りある労働力の中で開墾を進めるための効率性を考えなければならない。だから大陸側から世界四大文明が生まれる。そんな中、日本はそういったものとは無縁で、依然として自然と対話をする文化が1万年続いていったのです。1万年続いたからこそ、今日の日本文化、日本人的の考え方の基礎が出来上がったのです。大陸側は自然との共存共生という歴史を抜きにして、ムラをつくったら即自然との対立の歴史になっている。だから欧米的の考え方と日本人的考え方との違いはそこにあるのだと思います。今まで縄文時代は、歴史のはしがきみたいにとらえられがちだったのですが、ちゃんとした歴史の展開の第一歩として着実に歩み始めたのです。
津川)
農耕のはじまりが、実は縄文1万年の平和をぶっ壊す元凶になったのだとは全く驚きです。「原野」と云う大自然を破壊し「野良」にしてこれを耕し、より多くの穀物を効率よく収穫する。その「効率」と云う価値が人間社会に入ってきた故に「争い」がはじまったのだというお話は、カルチャーショックでした。
もうひとつ、冬至夏至の時に近くの美しい山の頂上からお日様がのぼる。その美しさに感動し、美しさの中にこそ神の威力が宿り、その美が見られる場所に住まいをつくることで、神のパワーに守られるに違いないと信じた縄文人の美への信仰にも感動しました。更に、三内丸山では3本ずつ向い合せに6本の巨大な白木の柱を建て、その間から日が昇るのが見えるような高度な工夫をしています。この縄文人の美しさを極める姿勢には感嘆します。土器に必ず突起をつけることでこれを「神」と定める抽象感覚も、岡本太郎さんが「これが芸術だ」と驚き叫んだ所以でしょう。更に縄文の火焔土器に見る模様の素晴らしさや、土偶の美しさには心底感動します。縄文人の美しさに対する信仰、美への崇拝は現代の日本人にも受けつがれ、春夏秋冬の自然の美しさを愛でる風習をも築いてきました。家屋の中にも、障子で部屋と部屋を区切り、それぞれの「間」の美しさを大切にし、またその障子を取り除くと全ての「間」が開放され、外の縁側や庭、借景の山や川や海と一体になり、大自然の中に住まいそのものが溶け込むように造られています。日本人は西洋文明が入って来るようになり、また大東亜戦争に負けてからは日本的美意識を疎かにするようになってしまいましたが、自然の美しさが神のパワーを持つという縄文の精霊信仰を現代に蘇らせて再構築すれば、現代人はもっともっと大自然に生きる生命と美しさを大切にできるのではないでしょうか。
話は変わりますが、北方領土から沖縄までも縄文土器が豊富に出土しているんですね。つまり縄文時代から、北は北方領土、南は沖縄までが日本の国土だったと云う証拠です。更に、縄文土器はそれより外地には一切出土していません。ということは、1万年の間、鎖国状態であったとも考えられます。江戸も縄文に次ぐ250年の世界に誇る平和継続の歴史がありますが、やはりこの江戸時代も鎖国をしていたわけです。
我々には明治時代以降に西洋文明、西洋文化が入ってきたことは基本的にはよかったんだとの理解があります、ゴッホやルノワールの絵を観られたことやバッハやベートーヴェンのクラシックを聴け、ギリシャの神殿を観られたことも素晴らしいと思いますが、文明というものがもたらす原子力や科学の廃棄物、食料の農薬や防腐剤等の毒素。文明が発達しすぎることが「生命」にとって良いことばかりではないとわかるようになりました。勿論ガスに点火するとき、木をこすり合わせて火を起こすよりもライターやマッチのほうが便利になって良かったとは思いますが(笑)。現代人はわれわれは進化してきたと思っているけれども、人間の質という意味で、縄文の人々の方が自然を愛し、仲間を愛し、生命を愛する、上質の人たちがはるかに多かったように思います。
縄文人が、富士山の頂きから太陽が昇る美しさが最高のパワーを持つと信じ、自然を愛し、大切にしてきたことが、1万年の平和を築くパワーにもなったわけですが、アウシュビッツでも、ガス室送りの恐怖の毎日の中で、道端に咲く花を見て「あ、きれいだな」と思えた人は、生き残ったといわれています。どんな時にも美しいものを見て美しいと思える人間の「余裕」が不思議な生命力を与えてくれるのではないでしょうか。縄文人が持っていた美への信仰とそのパワーは、DNAとして日本人の中でしっかり生き続けてきたことを、東北の人達のあの美しい心とそのパワーをみせてもらったことで確信することができました。
小林)
3・11の時の被災者の姿勢や態度が本当に世界を感動させました。おっしゃる通り日本人的な心が表れたのですね。そして日本人的な心が表れれば、誰もが感動する、人間として最高の態度の典型だと思います。美しいということを自分の心の中でそれを見出すことのできる能力がないといけない。能力があっても活用しなければ確認できない。縄文人は1万年自然と共生していたということで自然を見ていた。森林を表すのにふさわしい言い方ではないかもしれませんが、自然がはびこるジャングルのようなところを歩くときに、足元を見ずに顔をあげていかなくては前に進めません。顔をあげて辺りを見ながら道を探していく。森の中の生活の場としての活用させていただく気持ちが基礎になっているのだと思います。農耕の人たちは朝起きて支度をしてハラではなくノラにでるよね。そこでは効率よくさばいて早く家に帰ることが先にあって、だから下を見て一生懸命働くわけです。だから弥生時代以降は下をみて行動していく時間が増えていく。上をみるとおのずと自然が目に飛び込んでくるわけですから、そういう縄文人の原体験というものは得難いものだったのではないでしょうか。ところが、現在僕たちは危機的な状況を作ってはそこにこもっているわけですが、都内には富士見坂とか富士見町いうものがたくさんありました。自分たちの生活道路に名前をつけるときに遠く富士山を望んで、それとの関わり合いの中でそういった名前を付けたのですが、今はそれができない。一方では排気ガスで空を曇らせていくことが進んでいく。なぜ梅原猛先生が「まだ遠くに縄文がある」と感動しながら望みを託したかというと、それは単純なことで自然を自分たちの生活の好き勝手の材料にしなかった。自然との程よいバランスの中でやってきたことが大事だったと思います。
私は仲間と遺跡の発掘にでかけるのですが、都内でもしょっちゅう発掘をやっています。江戸時代の遺跡からは町屋や大名の墓などがでてきます。やはり田舎に行きますと山が目に飛び込んでくるんですが、そんなとき調査員に「夏至の時には朝日はどこから昇るのか」と聞いても誰もわからないのです。下を見て発掘に見落としがないかどうかそこだけ気にしているのです。あるとき、相模原市で調査をしているところに見に行った時に変なものがあるんですよ。
幅7~80㎝の白い粘土を敷きつめた帯が5~60mくらい直線的に続いているのです。道路でもない、訳が分からないものなのです。そこが縄文人にとっては意味があることなのです。我々の考えで延長線上で役に立つ立たないものを作ることこそが彼らにとってはよりどころなのです。それを下を向いて一生懸命掘っているのです。その時ふと顔を上げると大山がどんとあるのです。方角を見てみると、西あたりの日の出じゃないかと言うと、私よりもおしゃべりなやつがいて「ちょっとずれてるんじゃないですか?」なんて言うのです。調べてくれと頼んでも全然やってくれない。今はカシミールというソフトがあって簡単に調べられるのです。どちらから日が昇り、日が沈むかとか冬至の時はどうだとか。現場に行ったら大山を直接見られるのに、どちらに日が沈むかを確認しないんで、下だけをみているんです。そんな時、作業員のお年寄りが「あそこから出ます」と教えてくれる。地元の方はわかっているんです。その土地で生まれて育った人は食べ物を手に入れて平和に暮らすことだけではなく、自然の動き、四季だけを愛でているだけではなく太陽がどこから昇ってどこに沈むかなどは無理して調べようとしなくてもちゃんと頭にはいっている。いかに現代のわれわれが自然とのかかわり方がさみしい状態になっているかを考えると身につまされる思いがするのです。だから日本人的な考え方とか、日本文化がなぜ欧米的なものや大陸側のそれとは違うのかを考える時に、1万年以上の縄文文化の歴史を踏み台にしている。実は、はしがきではなく、第一歩にしてそれから着実に現在につながっているのです。ですからその1万年間は単なる無駄なプロローグではなくちゃんとした効果を残したはずです。それが我々の体に文化的遺伝子としてすりこまれていると思います。そしてそれは言葉である。言葉というのは日本人だったら和語や大和言葉であり、さかのぼれば縄文語です。万葉集ひとつみても8世紀にあれだけの歌を歌えるわけです。それがつい最近になって言葉を手に入れて5・7・5・7・7でまとめてみたものではないのです。ものすごく言葉の操り方がうまいわけです。8世紀の、万葉集がつくられていた時代から少し前は古墳時代ですし、少しさかのぼれば弥生時代です。弥生時代は短いですから、そこを通り抜けると縄文です。だから大和言葉は縄文時代にちゃんと自由に操っていたのです。それが文化的遺伝子を生み出して、そして言葉として伝えられ、その言葉がまた文化を生み出して、そして文化が言葉を生み出す。そうやって日本文化がつながってきた。そう考えると、悪条件がだんだん増えてきてはいますが、それでも縄文の伝統が今まで生きてきたように、これからも生き続けると思います。それは日本語がある限り大丈夫。よく聞きますが、俳句を作り続ける人がたくさんいる限り日本文化は安泰です。
■ 縄文対談 津川雅彦氏(俳優) × 小林達雄先生(考古学者)1
対談『縄文と向き合う』
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平成24年7月24日 NPO法人国際縄文学協会図書資料室にて公開対談
小林達夫先生(以下、小林)
津川さんとたまたまきっかけがあり、お知り合いになることができました。津川さんは大変勉強家です。縄文だけではなく、つい最近は『葉隠』の話など、真剣に勉強されています。
そして津川さんの周りには俳優仲間が大勢いらして(津川さんが)ひと声かけるだけで、40人くらいが集まり、会を津川さんは主宰されています。それは飲み会ではなく、勉強会です。
僕はその両方に顔をだせますが、爽やかに津川さんとその仲間の方々と縄文について語ったことは、私にとっては財産です。津川さんは本当にお忙しい方で、現在は銀座にありますテアトル銀座で『男の花道』(2012年7月12~26日)の演出をされていて、これに招待いただいて、私も舞台を堪能させていただいたのですが、感動して図らずとも涙を流してしまいました。舞台は明後日まで続くというお忙しいところ引っ張り出させていただきました。今日はあまり時間がないので早速始めたいと思います。
津川さんは縄文に対して並々ならぬ関心をお持ちなのです。私が津川さんのお話の端々から理解したところ、縄文に対してすごくいい勘所をお持ちです。津川さんの縄文との出会いやどんなところに関心をお持ちなのかなどを伺ってまいりたいと思います。
津川雅彦氏(以下、津川)
僕は縄文に関して全くの素人ですが、一昨年の暮れ頃から、どうも日本のことを知らなすぎるなと猛反省していた時、ふっと手に取ったのが梅原猛先生の『日本の深層』というご本でした、これに縄文土器は世界最古であると書かれていました。「日本の誇り」というものを相当傷つけられて育った我々世代は「世界最古」などと聞くと、気持ちがグーッと高ぶるんですね。しかし縄文土器が世界最古だと云うのなら、なぜそんなにすごいことを世の中の人達が全く知らないのでしょうか?結論的には関係者の「日本なんてそんなにすごい国の筈がない」と云う自虐史観のなせる罪だと確信するに至りましたが、まずは、考古学の先生を探しているうちに運よく小林達雄先生の著書にぶち当たったわけです。役者の都合がいいところは「津川雅彦」といえば、どこの何者かすぐにわかって頂け、信用してもらえることです。厚かましくも小林先生と直接お目にかかる機会を得まして、それで僕が役者や映画、テレビ制作者仲間を集めて主催している勉強会に来ていただき、詳しくお話を聞かせて頂きたいとお願いすることができました。失礼ながら先生は、落語家のように話がお上手で(笑)。本当に考古学者かな?と思ってしまう程でね(笑)。とても楽しませてもらいました。お話では、やはり縄文人が土器は勿論のこと、漆器、釣り針やモリ、漆喰などを世界で最初に発明しているのだと知ることができました。これはノーベル賞を貰ったC14炭素法で科学的に証明されているとのこと。縄文人はそういった頭脳の素晴らしさだけではなくて、1万年の平和を築いていたのだとも聞き驚愕致しました。1万年もの長い間、平和を保ち戦争をしなかったということは、縄文人にはそれだけの上質な人間性があったのだと思えます。何より人間には欲がありますので、我欲と我欲のぶつかり合いを抑制しないことには1万年の平和継続は困難だった筈です。彼らは自分さえよければ良いという利己欲を自ら律し得たんだと思うんですね。なぜ我欲を抑制することができたのでしょう?それはアニミズムである精霊崇拝の信仰に関係しているのではないかと推察しました。大自然を神と崇め、生命あるものすべてに神が宿ると信じる八百万の神の信仰ですね。そうすると神は自分の心にも相手の心にも宿る訳ですから、何事をするにも自分の心の神、つまり良心と対話をし、かつ仲間の心を思いやって決めることになる訳です。こうして自分の利己欲を「我慢」し、我儘を「忍耐」し、仲間の生命と大自然を守る「礼節」を大切にする。そういう1万年の平和を経験している間に養ったその「我慢」「忍耐」「礼節」は縄文人のDNAとなり、後世に受け継がれていったのではないでしょうか。東日本大震災の3・11の日、被災者たちが津波から逃れたその夜に残り少ない食料をわけあって一晩を過ごした!!その「我慢」。更に救援物資にはきちんと列を作り配給を受けた!!その「忍耐」。避難所では当番制にしてお手洗いまで清潔にしていた!!その「礼節」。世界中の人々がこのことを知り感激した訳です。東北の被災者は、まさしく縄文人が1万年の平和を築いたDNAそのものを実践したんですね。西洋文明に育った便利主義、個人主義、効率主義の中には「我慢」や「忍耐」、人を思いやる「礼節」は育ちにくい。その良い例が、東京で、原発事故の放射線被害で赤ちゃんに飲ませるのに必要なペットボトルを全部大人達が買い占めました。我欲にまみれた都会にはそういった「思いやり」は微塵もなくなっています。
今僕が知りたいのは1万年の平和の考古学的証拠です。ある本によると、500体の縄文人の人骨を調べたら、争いで亡くなったと思われる人骨がわずか15体。500:15と云うのは明らかに個人的な争いの範疇です。ところが弥生時代になるとこの比率が500:150になる。つまり集団同志の争いが起こっているということが骨からも推察できます。三内丸山に関するお話の中にも、彼等の叡智を裏付けるような話があります。1千年以上にわたり祈りの場を造り続けていることです。と云うことは、最初から完成を目指して造り始めているのではないことがわかります。造る目的が「未完成」にあったと云うのは、「永遠に造り続ける」ことをテーマにした素晴らしい建築哲学です。それは出雲大社の60年ごとの大遷宮や伊勢神宮の20年ごとの遷宮システムにもつながり、更に現代スペインのガウディの教会にもつながる建築哲学の根本となる思想です。
■ 縄文インタビュー 長浜浩明
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質問①:この本を書かれた経緯をお聞かせください。
大学時代、私は建築学科ということもあって、第二外国語としてフランス語を選びました。ところが、ドイツ語をとった友人が「ドイツ語はやさしくて良いぞ」と言うのです。聴くと「英語とそっくりだ」とのこと。その分けを知りたかったので少し調べてみたところ、ゲルマン民族の大移動と関係あることが分かったのです。つまり5世紀くらいにゲルマン族の一派であるアングロ族、サクソン族が大ブリテン島に侵入し、先住民を南北に追いやり、そこに王国を打ち立てたことが今日まで伝わる英語とドイツ語の類似性の原因だった、と納得したのです。
また当時、戦後の闇を切り開いた江藤淳が「文学」を教えていました。私は「法律」をとったのですが、先生の授業は興味深く、時間があれば聴講していました。その影響を受けてか、戦後日本の文系社会には彼らが公表できない闇、様々な“ウソ”と“タブー“が潜んでいることを知ったのです。
また司馬遼太郎の本も読んでいたのですが、街道を行くシリーズの「湖西のみち」で、日本人のルーツについて語っているところがありまして、それは確か、キムとかいう韓国の方との会話だったと思うんですが、日本人の6割とか9割以上が朝鮮半島から流れ込んだ人たちを祖先としている、とのことでした。
この話は、昔、学校で習った話と同じようでもあり、以前でしたら気にも止めない話なのですが、“英語とドイツ語の関係”と“文系社会の実態”を知ったためか、「本当なのか」と思ったのです。仮に、2300~1700年前に半島からやってきた人たちが日本人のルーツなら、日本語と朝鮮語と間に何らかの近親性があるはずだと。
ところが朝鮮語を聞いても全くわからない。それはちょっとないんじゃないか、と思いました。どう考えても納得できないので、そのころから機会あるごとに色々なことを調べ始めたわけです。理工系の大学教育のせいか、“疑問点は納得するまで徹底的に調べる”が習い性となっていたようです。
だが、ずっと納得し得る本に巡り合ったことがなかったのです。ある日、当時有名な知識人・山本七平の『日本人とは何か』が発売されたことを知り、期待して読んでみました。そこでの氏の見解とは世の定説と大差なく、ちょっとがっかりしたわけです。あの山本七平にしてこの考え方かと。
だがそのなかで、京都大学の生物学者・日沼頼夫教授が、ATLウィルスという白血病を起こしうるキャリアの分布状況を調べた話が紹介されていました。このキャリアは、日本では沖縄とアイヌで多く本州では少ない。また朝鮮半島や大陸ではゼロなのです。そこでの山本は、縄文時代の人たちは元々かなりの割合でATLウィルスをもっていて、ある時代に朝鮮半島や大陸から人々が渡ってきて、本州中心にATLウィルスキャリアが薄まっていった、なる定説をなぞるだけでした。
けれども子細にみると、本州のなかで九州が7.8パーセントととびぬけて多い。中部地方が一番少なく0.3%。関東や東北も少ない。もし、渡来人々が大陸や半島からやって来たなら先ず九州に着くでしょう。そして日本列島を北上してゆくのではないか。大勢の渡来人が押し寄せたなら、九州が一番少なく、中国、四国、近畿、中部、関東、東北とだんだん多くなっていくはずだ、と思ったのです。この見方は、山本七平や専門家の見方と異なるものの、大勢の渡来人がやって来たという話はおかしい、と確信するに至りました。
その後も新しい事実が分かって来て、稲作を始めたのは渡来人ではなく縄文時代の人たちだったという考古学的証拠もあったのですが、その後、多くのルーツ本を読んでみても、インタヴュアーは学者の言うことに反問できず、鵜呑み状態で肯定し、どの本も結局は当たり障りのない定説を追認していたのです。“日本人のルーツ”となると色々なことを言い得るので、決定打がなかったからでしょうか。
けれども、最近、篠田謙一氏の『日本人になった祖先たち』を読むことで、“話は逆だった”と直感したのです。氏は、韓国人のなかに縄文時代の人と同じDNA配列をもつ人がかなりいる、というんです。同じDNA配列をもっている、ということは、ご先祖様は同じだった、ということです。縄文時代の人たちと韓国人の遺伝子配列が似通っているのだから、縄文時代の人たちが朝鮮半島に進出していたと考えるのが自然だ、と氏はいうのです。考古学からの裏付けもあり、これは決定打になりました。
そして今までの疑問が、考古学、生物学、それに分子人類学、この三つの確固たる足場が築けたことで、長年の謎がするすると解けていきました。そこでこのような本が世にあるかと思って見渡すと、私が調べた範囲では類書は無かったので、まとめるのは大変でしたが、本にして世に問うことにしました。
質問②:本書で最も伝えたいお考えは何ですか。
過てる歴史常識を正さないと、立派な学者の見解も誤ってしまうということです。私はここで個人名を挙げて様々な角度から論じているわけですが、個人名を挙げるということは学問の進歩には不可欠なことです。それを受け取った方が反論をして下されば“私の見解が再検証できて嬉しい”のです。そして、互いに論じ合うことで“より正しい見解に近づく”ことが学問の進歩になる分けですよね。
例えば、九州大学の中橋孝博さんという方が、どうして北部九州の甕棺から出てくる顔が細長いのだろうと、疑問を持たれたようです。彼は九州の学者ですから、渡来してきた人は殆どいなかったことを知っていたからです。そこで彼は次のように考えた、というのです。
当時、縄文晩期、人口が7万5800人位だったその時代、紀元前300年頃に76人の渡来民が稲を持って北部九州に流れ着いた。こうして日本の稲作が始り、稲作民は多産系だから、人口増加率年2.9パーセントのネズミ算で増え、300年後には彼らの人口が約40万人になった。当時の日本には、縄文人が7万5700人位住んでいたのですが、彼らは300年間ずっと狩猟採集民だから、人口増加率が300年間年0.1パーセントで変わらなかった。だから300年後の紀元0年ごろになっても約10万人になっただけだったと。甕棺が出る人骨を調べると、渡来系とされる細長い顔をした人が多いのはこの人口増加率の違いが原因だった、としたのです。
この計算の前提は、中橋氏の頭に巣くっていた、“紀元前300年にコメをもった人たちがやって来て水田稲作を始めた”にあるわけです。北部九州での水田稲作は、紀元前600年から、或いは前900年から始まった、ということを知っていれば、そんな計算は出来ないわけです。つまり子供のころ習った、過てる歴史感覚が立派な学者の結論を誤らせてしまうわけで、宝来聡氏も篠田謙一氏も同じような考えでした。そこを直さないと、どんな立派な学者が出てきて正しい分析を行っても正しい結論に至らない。これが最大の問題だと思っています。正しい歴史を知らないと、立派な学者の研究も間違った結論を導きだしてしまうということです。
ところが、子供の歴史教科書を見ると、半世紀に及ぶ考古学的、分子人類学的知見が何ら反映されていないのです。今も小中学校では「米作りは2300年前ころに朝鮮半島からやって来た人たちが伝えた」と教えている。これは私が50年前に習ったのと同じで、とっくの昔に間違いと分かっているのに、今の子供たちは間違いを学ばされ、間違いをよりよく覚えた子供が優等生になる。これはおかしいですよね。
その頭で進学し、理系か文系かを選択して専門の研究に入るわけで、専門は立派なのですが、その研究から導き出した結果がおかしくなってしまう。そういうのは困る。正しい歴史的事実を子供たちに教えないと、日本の為にならないと思っています。
質問③:今後、縄文や日本人のルーツについて、どの様な研究を続けていかれるご予定ですか。
全ての学問は専門化が極度に進んでいます。各専門家は自の分野については詳しいけれども、全体を見渡してどんな姿が描けるのかということについては、他分野の専門家に遠慮をするわけです。私の経験からも、その心情は良く分かります。
私はこの方面の専門家ではないので、日本人のルーツについての各論を遠慮なく拾い出し、専門家が言ってきたことを、タブーや先入観にとらわれることなく、科学的、論理的な目で見渡すとどういう世界が見えるのか、これを客観的に成し得る立場にいたということです。ですから自分の言葉で強く主張してはいない。他人の研究成果を、“客観的、科学的、論理的に再検証”しているだけです。
こうして出来あがった実像を見ると、“縄文時代の人たちは先住民ではなく、私たちの主なご先祖様だった”という結論になったのです。
このようなやり方で、縄文・弥生時代に続く時代、大和朝廷と例えば邪馬台国との関係を科学的、論理的に検証したらどうなるのか。この話も深い霧に包まれ、百家争鳴の中で納得できるものに巡り合ったことがありません。今までの見方は思い込みが激しく、科学的、論理的見方と縁遠いんですよ。そういった意味で、大和朝廷と邪馬台国、卑弥呼と神武天皇の関係といった時代を明らかにするくらいまでは、やってもいいかなと思い、ようやく新たな切り口からこの時代の実像が描けたので、文章化すべく取り組んでいます。
これをきっかけに、日本人のルーツに関する論争ができれば幸いなことです。論争を通して真実に近づき、それが進歩につながるなら、いつでも喜んで時間を割きたいと思っています。誰もが、間違っていれば改めれば良い。世の中の進歩とはそういうものと思っています。
(平成23年2月1日 国際縄文学協会図書資料室にて)
■長浜浩明(ながはま ひろあき)
昭和22年群馬県太田市生まれ。同46年、東京工業大学建築学科卒。同48年、同大学院修士課程環境工学専攻修了(工学修士)。同年4月、(株)日建設計入社。爾後35年間に亘り建築の空調・衛生設備設計に従事、200余件を担当。
主な著書に『文系ウソ社会の研究』『続・文系ウソ社会の研究』『日本人ルーツの謎を解く』『古代日本「謎」の時代を解き明かす』(いずれも展転社刊)『脱原発論を論破する』(東京書籍出版刊)がある。